●文通番号9-12 憎み合うなら「人間」同士で
ミズキ 〔東京都八王子市 男 37歳 無職〕
周囲の憎しみや軽蔑をきっかけに引きこもった人や、引きこもったことにより新たに憎しみや軽蔑を受けた人の数を想像したとき、必ずや引きこもり問題解決の重要なキーの一つとなるであろうと思われる「なぜ人は憎み合うのか」というテーマについて私なりに考えてみたいと思います。
この世の中に渦巻く憎しみや軽蔑は全部までとはいえぬまでもほとんどは、現社会システムが不可避的に生み出すものといえるでしょう。なぜなら人間の営みのほとんどがこの社会では「善(社会の維持・発展に役立つもの)か悪(社会の役に立たぬもの)」という次元において評価されるからです。
人間社会における憎しみ・軽蔑の多くが「自分は社会的に価値ある(正しい・優れた)人間なのだ」という思い上がった意識に裏づけられていることからもこのことは納得して頂けると思います。
「社会」や「善悪」といった観念を持たない動物たちが、遺伝子にプログラムされた本能のままに振る舞い、欲望のままに生きながら無意識かつ結果的に彼らの社会を作っているのに対し、人間は「社会のために」自らの欲望を抑え、遊びたいのを我慢して勉強や仕事をします。
旧来の日常的感覚からすればこれは「正しい」生き方なのでしょう。
なぜなら個人の努力によって社会は進歩・発展を遂げ、そのおかげで昔は多くの人々がより幸せを感じられるようになった訳ですから。おそらく努力した本人も欲望を抑えたことによるフラストレーションを上回る幸せを感じることができたのでしょう。
社会は努力した者にプライドを与え、個人はプライドと引き換えに幸せを手に入れる。いわば「プライドという貨幣」を求める人々の活動により維持され、発展する社会。ここに資本主義ならぬ「プライド主義」ともいうべきシステムが成立したのです。
しかし人間はしばしば目的と手段を転倒する、というカン違いをします。「社会の維持・発展」自体が目的となり「人間のための社会」より「社会のための人間」が求められるようになってしまった現代においては、このシステムがもはや多くの人を幸せにするために有効に機能しないのは明らかです。
なんの目的意識もないまま、社会が命ずるから、周りの者がそうするからという理由であくせく働いて札束をため込んだ人が得られるのは幸せではなく、おそらく空しさといら立ちだけではないでしょうか。
「私は社会のために苦しい思いをしたのだ、苦労しない人間を幸せにするものか」
引きこもりのみならず、イジメ、教師による体罰、児童虐待、自殺、過労死、社会への怨恨を動機とする凶悪犯罪など、多くの悲劇の根底にこの「プライド主義社会」というシステムが生み出した心の歪みがあるように私には思えてなりません。
☆ ☆ ☆