●文通番号16-37 「自助グループ」活動への期待
ミズキ 〔東京都八王子市 男 38歳 無職〕
「自助グループ」という言葉から私が想像するのは、アルコールなどの依存症やACのためのグループです。
もちろん引きこもった人の全てがACとは限らないとは思いますが、引きこもり者には、長年にわたり共依存的な家族関係の影響下にあった人が多いのではないでしょうか。
私自身は引きこもり者のための「自助グループ」に出席したことはありませんが、引きこもりという社会問題の解決にあたってそのような、あるいはそれに似たような場(『ひきコミ』を含め)が果たすであろう役割には大きな期待を寄せています。
ただしそのためには、ACに限らず現代社会に生きる人たちは「狭さの押しつけにより、強い者に傷つけられ、弱いものを傷つける人間関係」にとらわれている、という共通認識が活動の土台として不可欠ではないでしょうか。
多くの引きこもり者もいわばこのような人間関係に「急性中毒」を起こした人たちと考えられます。アルコール依存の自助グループが酒からの脱却を目標とする人の集まりであるのと同様、引きこもり「自助グループ」の活動目的はこのような人間関係からの脱却であるべきでしょう。
たとえ「場」をつくっても、世話人やメンバーにこのような認識が欠けている場合、それは引きこもり自体を問題活動への嗜癖と見なし、そこからの立ち直りを活動目的とするグループになってしまう可能性があります。
引きこもり問題を生み出した原因を個人の「弱さ、未熟さ」にのみ帰し、現社会に対する批判的な支店を持たないグループは、結局のところ現社会の縮図(カリカチュア)にしかなり得ません。
このようなグループが社会的スキルと称して、共依存的人間関係のストレスに耐える強さを賞揚するなら、これはまるでアルコール急性中毒で倒れた経験を持つ人が少しずつ酒を飲んで耐性をつけているようなものです。
当然そこでの人間関係からは、不適応を起こした弱い者がさらなる孤立に追い詰められるという自体が発生するでしょう。つまり「引きこもり問題の濃密化」です。
一方、私がイメージするのはさまざまな活動を通じ具体的には次のような人間関係を目指すグループです。まず「自由と責任を自覚し尊重し合える」。
第一に認められるべきは「引きこもる自由」。義務感に基づく人間関係にはない「人と関わる自由、喜び、力」を得ることができるのは、引きこもる自由を自覚できた人のみだからです。
その他の自由についても、より大胆な言い方をすれば、お互いのワガママを許し合えるようになることが望ましいでしょう。とはいっても「他人の自由を侵害するようなワガママ」が許されないことは言うまでもありません。
次に「お互いのワガママを調停できる」。お互いの対等な自由がぶつかり合うところには、当然ある程度の摩擦は予想されます。それを「悪いのはどちらか」という問題にすり替えたり、感情的に相手の人格を攻撃したりすることなく主張的に交渉し、ときには妥協する能力。これこそ「社会的スキル」と呼ぶにふさわしい能力といえるでしょう。
ここでは「自分は傷ついた―だから悪いのは向こう」といった短絡した主張は認められません。
さらにこのような人間関係の重要性に理解を示す人たちには、引きこもりの経験の有無を問わず門戸を開くのもよいのではないでしょうか。
思えば個人の欲望(=ワガママ)を調停したところ以外に、絶対的に「正しい社会」が存在する訳でもありません。個人が自由を持て余し「許されるべきワガママ」さえ言えないような共依存的人間関係の下では、民主主義も正しくは機能しないでしょう。
こう考えてみると、むしろこのような引きこもり者のグループが「社会の病理」から脱した新しい人間関係のモデルとなる可能性さえあながち夢ではなくなってくるのです。
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