●文通番号17-11  「社会的暴力」論

ミズキ 〔東京都八王子市 男 38歳 無職〕

 数年前一人の若者による「なぜ人を殺してはいけないのか」というあるテレビ番組内での発言が、ひとしきり世間の注目を浴びました。私の知る限りその後社会からはこの問に対するなんの納得すべき回答も示されませんでした。

 一方自然からの回答は単純明快です。自然界には善意という観念自体がそもそも存在しませんから、人を殺してはいけない理由もありません。

 こういえばいかにも自然界が人間社会と異なり、日常的に暴力が横行する恐ろしい世界であるかのように聞えますが、本当にそうでしょうか。

 暴力が日常に横行しているのは人間社会も同じことです。むしろ人間ほど同一種族内で激しく傷つけ合う動物はそう多くはないのではないないでしょうか。何より自然界と人間社会、それぞれにみられる暴力の質の違いについて十分考慮に入れるべきであると私は思います。

 人はみな「自然」と「社会」という2つの世界を同時に生きています。第9号でも述べた通り残念ながら現在の社会は「社会的プライドに基づく憎しみ」という自然界には存在しない感情によって秩序を維持されるシステムです。社会(人)は自然の一部を「悪」と名づけて憎みますが、そのことにより自然(人)からも確実に憎み返されているのです。この憎しみ(=精神への暴力)の応酬自体がすでに人間社会を自然界に勝るとも劣らず殺伐たる世界にしていると言えるでしょう。

 物理的暴力はその犯罪性を十分に強調され、抑圧されている一方で、社会が一方的に設定したルールに基づく精神的暴力はその不当性を顧みられることもなく容認され、行使されています。

 このような事実を見るにつけ、現代社会における心と体を巡る意識の不健全なまでのアンバランスを痛感せずにはいられません。

 のみならず注目すべきは、例えば学校教育―逸脱行為―体罰―非行・犯罪―刑罰(憎しみの表現としての)というような人間社会では新たに憎しみの応酬により、もともと自然界には存在しない物理的暴力までもが生み出され、ともに増幅し循環しているという点です。

 この中には一見「自然対自然」の暴力に見えながら実は、一部オヤジ狩りのような「自然から社会への逆襲」や浮浪者狩りのような「社会から自然私的制裁」といった性格の濃いものも含まれるでしょう。「悪を憎む」意識が生み出したこの暴力循環を再び「悪を憎む」ことによって抑制することは不可能と思われます。

 私は別に刑法のような「個人の自由を守るためのルール」の必要性に意義を唱えるつもりはありません。法律は憎しみとは別に成り立ちうるもののはずですから。

 そこで私が提唱したいのは、法を守るのはいったい誰のためなのかという基本的な問題についての見直しです。真に自立した個人にとって法を守るのはあくまでも自分のためです。

 目指すべきは「守りたくないほうは守らなくてもよい、その自由を認めた上で法を破った者にはペナルティーを厳正に適用する」社会。非常識な意見に聞えるでしょうが、これこそ「罪を憎んで人を憎まず」と呼ぶにふさわしい姿勢ではないでしょうか。

 逆に従来の常識通り「私は社会のために法を守っている」というプライドを法の運用とからめる限り、人間社会が増幅する憎しみと暴力の循環という地獄から解き放たれる日は来ないでしょう。

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