●文通番号11-18 自然にこそわが生きる道
ミズキ [東京都八王子市 男 37歳 無職]
「人は社会的であるがゆえに醜く、自然であるがゆえに美しい」。これが今の私の人間観です。「人間=社会性ヒト」という定義に従えば、私は「人間嫌い」ではあっても「ヒト嫌い」ではないといえるかもしれません。
私のいう「社会」とは人の意識の上で組み立てられ、意識の上に映し出される「世の中の表面」であり、見る角度によって現れる薄い膜に過ぎません。そこでは人の生き方、物のあり方も規範によって定められ、その理由も明快です。
一方私のいう「自然」とはあらゆる社会規範からフリーな存在として生きる自由をわれわれに与えているものです。この自由のままにわれわれが行う無意識の営みこそ人間の自然たる証しです。この自由を尊重されているという実感なくして恐らく人は生きる喜びを感じながら人生を送ることはできないでしょう。
全ての人が自然と社会の間でうまくバランスを取って生きられればそれが一番かもしれません。しかし残念ながら、社会という観点からしかこの世界を見られない大人たちによるマインドコントロールが学校や家庭で教育の名の下に行われる今日、多くの子どもたちがしばしば「単なるわがまま」の非難のもとに本来尊重されて然るべき自由を奪われ、苦しんでいるのです。
社会による規範の押しつけを正当化するために「そもそも人間は全くの自由には耐えられないものである」などという主張がなされることがあります。自分に与えられた自由の大きさ気づいて戸惑う人もいるのは確かでしょう。しかし私は個人の自由を守るためにこのような押し付けと依存の連鎖を断ち切り、「自然に帰る」ことの必要性をこそ強く訴えたいと思います。
自然はさまざまな自由をわれわれに与えます。たとえば自然界には死ぬ自由があり、だからこそ「生きる自由」もあるのです。一方、社会はわれわれに死ぬ自由を認めませんから、そこにあるのは「生きる義務」でしかなく、自由はありません。
この「人は生きねばならないものである」という強迫的な命題に生きる喜びより煩わしさを感じる人も少なくないのではないかと私は想像します。いかがでしょう。社会はみなさんに勉強や仕事をし、友達をつくる「自由」を与えていたでしょうか。
生きる自由のないところには生きる喜びはなく、生きる喜びのないところには生きる力も湧いてこようはずがありません。今この社会に生きることにより傷ついた多くの人に必要なのは「自分の生き方を決める自由」と「その結果に対する責任」を自覚すること、すなわち「社会からの自立」にこそ他ならないでしょう。
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