Category: 11:埼玉県

●文通番号38-05  親せきの人たち 

スピカ [埼玉県上尾市 女 35歳]

 37号の『謝罪と苦言』の中で、「親の態度が社会へ出る気力を奪うのでは?」とあったので、ずっと言おうと思いつつ言えなかった事を書きます。

 主に母の事ですが。幼い頃、祖父母の家へ行く時、事前に「おじいちゃんの前では、正座して敬語でないと怒られるよ」と言われました。私は恐怖を感じましたが、実際には祖父はそんな事は気にせず、寝ころがってもタメ口でも怒らず、母は拍子抜けしてました。

 出かけた帰りなど「○○したのはいけなかった」や、「お母さんは恥ずかしかった」など、私の行動について言われる事がありました。

 だから、いつの頃からか私は何かをしようとする時(高校選び、習い事や仕事を考える時、物を創る時のデザインなど)、母がどう思うか何と言うか、常にその思いに取り付かれ、がんじがらめで萎縮してます。

 だから動けないとか、他人の私への評価や感情が恐くて動けないので、母の言葉や態度も問題の根源だと思っています。

 母は、私がひきこもった事や何か動きがあった時も人に話してるようです。勿論母は私には言いませんが、周りの人の態度で感じます。という事はつまり、私の知らない所で知らない人に、私のプライバシーが知られているという事です。私はそれも嫌で、外・・・特に地元が恐くて家から出られない・・・という事もひきこもりからキッパリ抜けられない一因です。

 おじ○Aが結婚したら、突然いとこが出来ました。私より年上のお兄さんとその妹。でも祖父母の初孫は私。「子供に関係ない」という事で何も教えられず、私の頭の中は「?」でいっぱいになりました。おじ○Aとお兄さんは各々バンドをやってたので、音楽の話で盛り上がってました。

 おじ○Bは、途中で奥さんが代わりました。前の奥さんは入院中、子供に「ごめんね」と言ったというのがどんな訳か、死別か離婚かは知りませんがいなくなりました。次の奥さんとその間の子供4人と前の奥さんの子と、全員で一緒に住んでましたが、特に問題はありませんでした。祖母は上の子の事を「あんな事があったのによくグレなかった」と言ってました。つまり、グレて当然の事があったのでしょう。

 このように、私のいとこ達は血のつながらない家族と上手く行ってるようでした。

 私は産みの両親と住んでるけどひきこもりです。私は、母に私のままを受け入れてもらえてないと感じるので、そんな自分に納得出来ません。

 私の父は3人きょうだいの末子で、早くに両親を亡くし1番上の姉が親代わりでした。どんな暮らしだったか何があったかは知りませんが、父はおばに対してとても冷たく接します。

 おばはいわるゆる独居老人なので、我家の近所に住みよく食事に来ます。母としては年寄りの1人暮らしが心配という事ですが、父は他人と見なして礼儀などを求めます。用がないのに家に来る事を嫌がり、用が済んだら早く帰したいのです。お陰で私は、年寄りのいじめ方を実践で教わってます。「他人」と言うけど、父には姉、私にはおばなのに、なぜ、そんな態度が出来るのか理解出来ません。

 余談ですが。その間のおじ○Cは、10年程度前脳溢血になって以来、転院をしながらまだ入院中です。本人に治す気がないので、リハビリをしません。

 で、その奥さんが、頭がおかしい人で、見舞は行かないしお金も払わないので、お医者達が訪問したら、ボサ²頭にちぐはぐな寝巻きで「何しに来た!帰れ!」と怒鳴られたそうです。

 近所の人が家中探して、古い手紙からやっと我家に連絡をくれました。

 私の親達が見舞うと、看護師はおむつを半分に切って色々な事を切り詰めて限界な感じで半泣きでした。

 家に行くと、台所の窓は閉り切らず風雨が吹き込み、洗濯物も出したまま(おじがやってたのに入院したから)、家の中はいわゆるゴミ屋敷。

 そんなこんなで母は「親と住めて(私を)幸せだ」と言いますが、私はそうは思えません。

 血のつながらない親子でも幸せがあります。産みの両親と居るから幸せとも当たり前とも限りません。

 私が不登校情報センターで、親などに「産みの親のくせに」と言うのは、そういう背景があるからです。恩着せがましくても理解してないとかやらないのは、頭に来るので。

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●文通番号19-34  ふり返って思うこと

スピカ  [埼玉県上尾市 女 31歳 ニッタ-]

 <懺悔>

 あたしの一番大きな罪は、この世に生まれてしまったことです。でも勇気がなくて死ねなくて、生き恥をさらしてます。ごめんなさい。

 いつでもひきこもりに戻りそうで、必死に動き回った昨年。

 欲しい情報は自分から取りに行かないと得られない、有意義に過ごすには、自分から動かなくてはならない…。そう思ってやってきました。

 でも、誰かと関わろうとする時、相手の考えが分からないと対処ができません。思わせぶりやどっちつかずのままズルズルと長引いて、結局ダメになった時の落胆は大きいものです。

 しょせんあたしもひきこもり。疲れました。うつになりそうです、

 電話友達がほしいです。年の近い女性と、修羅場慣れした男性。苦しい時に頼れる人、自分の気持ちを言える人、自分の言葉に責任が持てる人。手紙だけなら、ひきこもりから、少しでも快復した人、したい人。

 以前ご縁のあった女性、こちらから連絡取れない人もいるので。

 <好ましくないと思います>

 私は情報センターへ頻繁には行かれません。めったに会えないのに相談したくてやっと話せて、そろそろ本題に入ろうとした所でカウンセラーに邪魔をされて連れて行かれ、結局、悩みを話せないまま、帰宅途中の駅で泣いてしまったことがあります。人の世話をするのも結構ですが、もう少し、状況判断をしてもよろしいかと思います。

 また「助けてやる」的な態度のカウンセラー志望の人からは、結果的に、その人のグチを聞かされ、泣かれたことも1度や2度ではありません。

 私も、ギリギリの精神状態なので、こういう立場の人に対しこんな思いをするのは、非常に苦痛に思います。

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●文通番号12-07  「ありがとう」

スピカ 〔埼玉県上尾市 女 30歳 家事手伝い〕

(自己紹介として第1・3・6・8号を参照して下さい)。

 『模索の会』を去った人達がいる。単に仕事が忙しい人もいれば、何らかの感情のもつれで去った人もいる。人の集る所はトラブルは付き物、ソリが合わない人もいる。魅力的な人はみんな去っていく。いい人はみんな私から離れていく、さみしい。でも引き留める権利はない……。『会』を卒業出来できた人にこそお話しを伺いたいのに……。

 登らなければならないガケがある。下から見上げて、高く険しく恐ろしい。先に登った人からは導いてもらいたい、と思うのはわがままだろうか? または支えてあげられないだろうか? もっと早く『模索の会』に行けてたら……。

 『会』で中学の友人と再会した。あの人この人もっと話したかった人、もっと早く知り合って親しくなりたかった人が、たくさんいる。なぜ行けなかったのか? 『会』の存在を知らなかったのと、病が重くてほとんど動けなかったから。とても悔しい。

 せっかく会えても近づけない人がいる。恐怖で壊れそうなとき、「大丈夫だよ」と抱き締めてもらいたい人がいる。切ない。

 「うつだ」と言った電話に嫌な顔せず(?)長時間付き合ってくれた人達。「(私から)勇気をもらった」と手紙をくれた人、最近は私の方が励まされてる。そして、『会』で温かく接してくれた人達、直接いうのは恥かしいのでこの場を借りていっちゃいます。

 「ありがとう」

 手編みの相談受け付けます(老若男女・随時)。

 「編み方わからない」も「編んでくれ」」もOK(詳しくは第9号見てね、応相談)。

 えっ、センターで編み物教室? 受講料要るけど、希望者います?

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●11号-文通希望せず  私は生きている

スピカ [埼玉県上尾市 女 家事手伝い・引きこもり再発中!]

 働くことがいやな訳じゃない。やりたいこともある。人と交わることの喜び、未知への挑戦、発見など。

 進みたい気持ちがない訳じゃない。ただ恐怖心が強すぎるだけ。遊んでいる訳じゃない。自由気ままでもない。引き込もれば、いろいろな戦いがある。親(家族)との闘い、世間(慣習)との闘い、自分(理想)との闘い。

 同情は要らない。とにかく知ってそのまま受けとめてほしい。

-アナタたちは忘れたかもしれないけど、私は生きている。ここにいる-。

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●文通番号8-27  家も学校も辛かった

スピカ 〔埼玉県上尾市 女 29歳 家事手伝い・内職〕

家を出る口実に制服を着る、家を出る。教室のドアを開ける、言い知れぬ不安。息苦しかった。空気の壁みたいな圧力を感じた。「そうかなぁ? そんなことないけどねぇ」。キョトンとして誰かが言った。―あなたはそれを感じないのね、幸せな人。教室に入れない、学校にいたくない。家に帰れない。街をさまよう。

友人に大量の手紙を書いた、内容に対する返事は一言もなかった。―私ってその程度なのね。いない間に私物が使われた、犯人は友人の一人だった。事後報告もなかった。

―もういいや。決別の決心がついた、学校なんてしがみつく必要のない所。ただ資格だけあればいい、身分が欲しいだけ。

機械的に出される食事、監視と中傷の食卓。母の料理を食べたくなかった。食卓が苦痛、弁当も捨てた。

「制服を着て家を出るということは、学校に行きたい気持ちはあるんだね!」。母が言った。

―そんなんじゃないや! 一日中パジャマで過ごした。「どんな気持ちで買ってやったと思ってんだ!!」。制服を床にたたきつける母、ボタンがかけた。―どんな気持ちで着てると思ってんだ!? 切り刻んで、捨てた。「近所でなんて言われてるか知ってるか!? 守ってやってんだぞ!」。母が怒鳴った。―子どもが親に守られるのは当然の権利だと思ってた、違うの? 「お前も辛かろうから生んだ責任で殺してやる」、階段を引きずり下ろされた。

“生んだ責任”と言うなら、その前にして欲しいことがある。理解できなくてもいい、せめて「そんな苦しみもあるのだ」と知って欲しい。「そんなもの気合で跳ね返せ!」。それのできる人とできない人がいる、私にはできなかった。だからといってそれが劣った人間だろうか? ―そういうのも個性って言うんじゃないの? 

父への憎しみを意識したのは小学1年だった……。「親の顔に泥を塗った」と言われたが、父のせいで人前で恥をかいたことは多々あった。些細なことで怒鳴りつける、誰に対しても横柄、自己過大評価。「人の形をした動物、乞食、バテイ」etc、感心する程のボキャブラリー。言い返せば「“角が立つ”と言って言葉に気をつけろ!!」。―自分だって、角どころか刺も毒もあるじゃないか! 崩壊した“家父長制”への憧れ? ……時々起こる殺してやりたい発作、心臓を一突き。―背中からでも場所はわかる、私にはそれが出来る。それがわかった時、体が震えた。めまいがした、意識が遠のいた……。気持ちの高ぶりが押さえられなくて、手首を切った。

子どもがその家の子になるまで、親には3回の選択のチャンスがある。

1、子どもを作るか作らないか、

2、その子を生むか生まないか、

3、自分(たち)で育てるか育てないか。そうやって子どもはその家の子になる……。

子どもがいる=親=エライ、とはどうしても思えない。子どもがいなければ「親だ!」と言って威張ることもできないのだから。

ただそのままを受けとめて欲しかった…。監視・干渉・無関心。悲しかった、苦しかった。八方ふさがり、絶望……。登校拒否・引きこもり、「したくても親が許さなかった」とよく聞く。―親に許された訳じゃない!

安心できる場所が欲しい、信用できる人が欲しい。人がこわい。―私を見て、見ないで。

わからない。

甘え方がわからない。愛し方がわからない。“愛され方がわからない”。本当の苦しみはなかなか口にできない。

ほんの少し休憩するだけのつもりだった。こんなに長くなるなんて、こんなに辛くなるなんて……。例えば深い穴に落ちたようなもの。真っ暗でどこにもつかまる所がない。

―助けて!。何度も叫んでやっと誰かが手を差し伸べてくれる。少しずつ少しずつ、穴をはい上がる。もう少し、あと一歩……。やっと縁に手がかかったところで「もういいね」。

―えっ、行っちゃうの? ちょっと待って、もう少しそこにいてよ!

……ずっとそんな感じだった。やっとかけた手は不十分、せめて少しでも出られるまで。

―お願い、行かないで!!

やっと出られてもまた外は暗闇。―見えないよ、わからないよ!

☆ ☆ ☆

●文通番号6-01  20歳代の10年がすぎていく

スピカ 〔埼玉県上尾市 女 29歳 家事手伝い、ニッタ―〕

引きこもり歴

 私の引きこもり歴は成人式から始まる。それまでも絶好調ではなかったが、式が区切りになるということは20代の10年間を無駄にしてしまった、ということだ。

 20代といえば余計な制約から解き放たれ、権利や経験、知識を得られる年代である。だから、人間の扱いは未だによくわからない。

 成人式の衣装といえば女性の場合、振り袖が主流だが、大きな区切りの一つであるから、“無理をしてでも親は着せてくれるもの”と思い込んでいた

 だが、かなり早い時期から「レンタルの洋装にしてくれ」(つまり安くすませてくれ)と言われ続けていた。

 私は高校中退だから、かなり無駄金を使っていたのだ。「学校を辞めたら学費分浮くものではない」のだそうだ。

 女児の多くは成人式と結婚式の衣装に幼い頃から憧れ、“いつか必ず着れる物”と信じて育っている。親の意向、しかも“自分に非のある金のこと”で打ち砕かれてしまったのだ(直接の理由は些細なことだが)。そのために気がそがれてしまった。

 その後ときどき現れる親切ぶった人々にごまかされながら、病院だの住み込みのバイトだの大検だの、何かと理由をつくって外出を試みた。“親切ぶった”というのは、口にできた軽い悩みが解決すると、全てが解決した気になり去って行く人や、「悩んでるお前を見たくない。解決してから来てくれ」と逃げて行った人。専門家も、私が講演などに関心を示さなければ去って行ったので、私としては裏切られた気持ちになる。そういう人々との関わりですっかり人間不信になってしまった。

 20代は“漠然とした不安”だった。これから30代を迎えるに当たり、“恐怖”を感じている。その先は未経験なのでわからない。“絶望”でなければいいが……。

不登校

 学校へ行きたくなくなったのも似たような理由だ。

 高校2年の学園祭準備中に仲間と小さなモメ事があった。それは本当に些細なことで、すぐに解決したのだが、その辺りから急に力が抜けてしまった。

 実は入学3日目ぐらいから辞めたかったのだ。そこへきて急に学校がどうでもよい存在になってしまったのである。授業時間が無意味に思え、勉強や人生に関係のない会話が無駄に思えた。欲しい資格が取れるでもないし、教師は無気力だし、生徒との肉体関係にも大したオトガメもない。生徒は強制自主退学だし。

 私が気力を失いかけた頃に、担任は子どもつくってるし。“あの学校へ行く意味がなくなった”(学校名をあげたら都内近郊の人はわかるかも)。

 ちなみに中3の担任はすごく力強かった。家庭に問題があり粗暴で学力の乏しい生徒、前年の担任とのイサカイにより深刻な登校拒否の生徒、入試直前に家が全焼した生徒など「金八先生」並のクラスだったけど、“全員の”進路を決めたんだ!

 それがあったから教師に対して“無駄な期待”を持ってしまったんだな。

 退学後約3年ぐらいは高校の記憶がなかった。というか、瞬時に思い出せなかった。例えば高校3年の3月に退学したのだが、4月にはその3月に中学を卒業したつもりでいた。だからいろいろな年数計算が合わなかった。

 夢もずいぶん見たな。実際にあったことなかったこと。あったことには、当初できなかった仕返しを試みていたり、なかったことも、夢のなかでは争っていた。“逃げる、闘う(戦う)”系の夢をよく見た。自分の叫び声で目覚めることも随分あった(マシンガン、ぶっ放してたこともあった)。

 校内には敵ばかりではなかったと思うが、私には“偽善者”に思えた。私から働きかけた時(登校、電話など)には優しいことを言うが、それでいて向こうから連絡をくれることはまれであった「きれい事言うな」と何度言っただろう……。

 私の両親は「モラル・ハラスメント」である。残念なことに私もその性質を受け継いでいるようだ。最近ある人から、「ガツンと叱られたことがないのか!」と言われてしまった。

 まず親父だが。コイツがかなりのクセ者で、専門家に言われても「れっきとしたモラル・ハラスメントだ」だそうだ。

 主な特徴は“自分は絶対正しい”というもの。もともと嫌みな奴ではあったが、誰に対しても横柄で、自分の思いに合わないことすべてを、即刻“悪”と決めつける、というものだ。それでいて権力にはへつらうのだからハタで見ていて笑える。

 あるいは、誰かのやり方を頑なに守り、不都合が生じるとその人のせいにする。臨機応変という事をできないのではなく“しない”のだ。

 そしてお袋は、私に対しては“過小評価”である。そのため私は、同世代のひとたちからは「博識」と言われる(事もある)が、お袋からは「無知」と言われ、自分ではどっちつかずである(どちらの要素もあるのだが)。

 高校についても、せっかくナカナカの所に入ったのに、不登校・休学・退学、そして引きこもってしまったのは、ものすごく“恥”であるようだ。彼女も同じ学校の出身でかなり気に入ってたようだから、なおさらいけない。

 私の住んでいる辺りは新興住宅地で、いい学校・いい仕事、立派な肩書きと大金を持っている。だから、一般世間で見れば私は大したことはしてないのだが、この辺りで見ると、かなりの落ちこぼれということになる。

 まして私は幼い頃から大人に都合のいい子で大人びていたので、このような経過(結果)を受け入れることができないようである。以前、「ありのままの自分を受け入れてくれる人の中にいないと、自分が駄目になるよ」と言われたことがあるが、それは、決して親(家族)ではなかった……。

 それが私にとって一番の障害である。

 だから「親が支えてくれたから頑張れた」という語に納得ができない。「生きていてくれさえすれば、どんな状態でもいい」という言葉が信じられない。

脱出に向けて

 「遅すぎることはない、何度失敗したっていい」とよく聞くが、私にとってはそれもきれいごとである……。時期・タイミング・限度というのはやはり“ある”と思ってる。

 新しいことを覚える、実績を積む、信用を得る……。それなりの時間が必要である。とすれば「いつまでもグズグズこもってなんかいられない!」と、焦りが生じるわけである。

 それが今の私である。

 誰だってそうだと思う。いつまでもこもってるつもりはないんでしょ? これ読んでる引きこもり諸君。いつかは脱出したいんでしょ? だから集まってくるんでしょ? 何かを求めて。

 私はそうなんだ!

 だから、同じ境遇の仲間内で傷をなめ合い、慰め合うのは、本当はもうしたくない。確かにこもり始めた人にはそういう時間が必要だが、そこで止まってはいけないと思う。なんてったってウチら引きこもりは、“ただ飯食らいの役立たずの恥さらしの粗大ゴミ”なんだから! ……なんて言い方はきつすぎるが、言葉を飾ってる余裕はない。現実を見つめ最悪の事態を想定し、“ベストを尽くす”。

 「夢」は、捨てずにいよう。「二兎を追う者だけがニ兎を得る。夢はかなえるためにある」と言った人もいた。少しずつでも準備はして行こう。いつか見返してやろうぜ!

 そんなわけで、私は脱出につながる人を求めている。少しずつでもいい、引き出して欲しい! 一人じゃ出られないや。外から出口を開けて欲しい。「ここにも道がある」と示して欲しい。もしかしたら後ろにあるかもしれない、絡まってるかもしれない。トンネル工事のように両方から掘り進んで、いつか真ん中で手をつなごう……。

☆ ☆ ☆

●文通番号3-56  状況打破につながる人を

スピカ 〔埼玉県上尾市 女 28歳 家事手伝い・ニッタ―〕

 こういう所に自分の気持ちや出来事を話せる人はとてもすごいと思う。私はこの本1冊使ってもまだ足りない……。知ってもらうために話すこと、それはとても難しい。

 私、高校を不登校から休学・退学と進みました。その後9年ほど、断続的にひきこもっています。その間、通信教育を使っていくつかの資格を取りました。そして、大検から通信短大入学、そして中退までを自力で取りました。これについて親は何も知りません。

 在宅のバイトもいくつかしました。そうやって軍資金を溜めています。本当は住み込みで保育士をするのが夢です。あきらめてはいません。

 今は主に編み物をやっています。好きな物を創って委託販売に出したり、注文を受けたりしてます。そういう依頼ももらえると嬉しいです。一般人、デザイナー、アトリエを希望します。お友達は、状況打破につながる人を希望します。だって疲れたもん……。年の近い人。

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●文通番号1-20  手編み展覧会の報告

スピカ 〔埼玉県上尾市 女 28歳〕

 11月中旬に、母の手織と私の手編みで「二人展」をやりまっした。実は今回で2回目で、前回は全くやる気が出ず、ある物を適当に出しただけだったので、自分を出せなかった。今回はこれ用に創り、基本理念とは少し違ったけど、やりたいことをやれました。

 前回を見た人にはレベルアップしたように見えたかもしれませんが、私としては今回の方が本性。

 今回は、若い女性向きの物、子ども物、小物やあみぐるみを出しました。しかし見に来るのはおばさんばかりであまり売れませんでした。

 前回は、いいかげんな物ばかりだったのにたくさん売れたのは不思議。

 普段は、自分の編みたい物を編んで委託販売に出したり、制作依頼を受けたりしています。たいした儲けにはなりませんが、いつか何かにつかえると思い、地道にためています。依頼者には展覧会に来て技術や感性を見てもらいたいものです。来た人から新たな依頼者も出たり、糸をもらったりといったつながりが広がることが期待できます。

 「きっかけになれば」と思い知らせたかったのですが、発行が間に合わなくて残念でした。謝りたくはないのですが、もし次があるとすれば2~3年後。そのときはこれを読んでいる人たちも来てくれると嬉しいです。何かのきっかけとして。私はひとまず、また引きこもり生活に戻ります……。

 〈追記〉手編みについての質問など、私でわかることなら相談にのれるかもしれません。

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