flagile [三重県員弁郡 女 27歳 家事手伝い]
こんにちは!! PN変えてみました。意味は“こわれ物”です。これはELTのものすごいいい曲です。
心の病になったのは中2の時でかれこれ13年。なかには楽しい事があったかも知れないけれど、ずっと苦しんでいます。今回は家庭内に問題がある人etcからお話聞かせて頂きたいです。
私は、父と上手くいかず、いつも衝突ばかりしています。仕事も続かなくて、一応家事手伝いという事になっています。
なので、余計ぶつかります。父は健康なので理解もしてくれません。
いろんな事含めて話せるPF欲しいですので、あなたからの手紙待っています。
P.S.問題が起こるのは家庭内以外にたくさんありますよね。少しのこうしたら? なんてアドバイスも嬉しいです。一緒に考えていくのも嬉しいです。
必ずお返事書かせて頂きますのでどしどし送って下さい。
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ハウ 〔滋賀県近江八幡市 女 27歳 無職〕
夢から醒めたら
また夢のなか
まどろみと覚醒の
あやふやなバランスの妙
なにが本当かわからない
現実のありかがわからない
それは気狂い?
夢と現実の境線を引く?
無数の夢や妄想が並行してあり
そのどこに生き、生かされてるのか
無数のパラレルワールドのどこの
どの自分を生き、生かされてるのか
ひずむ時間の流れをまたぐとき
「ビックリシタ」
という自分の声だけが
僕に聞こえる
(見る、嗅ぐ、聞こえるすべてのなかで
唯一究極その声の現実感)
☆ ☆ ☆
ミズキ 〔東京都八王子市 男 38歳 無職〕
数年前一人の若者による「なぜ人を殺してはいけないのか」というあるテレビ番組内での発言が、ひとしきり世間の注目を浴びました。私の知る限りその後社会からはこの問に対するなんの納得すべき回答も示されませんでした。
一方自然からの回答は単純明快です。自然界には善意という観念自体がそもそも存在しませんから、人を殺してはいけない理由もありません。
こういえばいかにも自然界が人間社会と異なり、日常的に暴力が横行する恐ろしい世界であるかのように聞えますが、本当にそうでしょうか。
暴力が日常に横行しているのは人間社会も同じことです。むしろ人間ほど同一種族内で激しく傷つけ合う動物はそう多くはないのではないないでしょうか。何より自然界と人間社会、それぞれにみられる暴力の質の違いについて十分考慮に入れるべきであると私は思います。
人はみな「自然」と「社会」という2つの世界を同時に生きています。第9号でも述べた通り残念ながら現在の社会は「社会的プライドに基づく憎しみ」という自然界には存在しない感情によって秩序を維持されるシステムです。社会(人)は自然の一部を「悪」と名づけて憎みますが、そのことにより自然(人)からも確実に憎み返されているのです。この憎しみ(=精神への暴力)の応酬自体がすでに人間社会を自然界に勝るとも劣らず殺伐たる世界にしていると言えるでしょう。
物理的暴力はその犯罪性を十分に強調され、抑圧されている一方で、社会が一方的に設定したルールに基づく精神的暴力はその不当性を顧みられることもなく容認され、行使されています。
このような事実を見るにつけ、現代社会における心と体を巡る意識の不健全なまでのアンバランスを痛感せずにはいられません。
のみならず注目すべきは、例えば学校教育―逸脱行為―体罰―非行・犯罪―刑罰(憎しみの表現としての)というような人間社会では新たに憎しみの応酬により、もともと自然界には存在しない物理的暴力までもが生み出され、ともに増幅し循環しているという点です。
この中には一見「自然対自然」の暴力に見えながら実は、一部オヤジ狩りのような「自然から社会への逆襲」や浮浪者狩りのような「社会から自然私的制裁」といった性格の濃いものも含まれるでしょう。「悪を憎む」意識が生み出したこの暴力循環を再び「悪を憎む」ことによって抑制することは不可能と思われます。
私は別に刑法のような「個人の自由を守るためのルール」の必要性に意義を唱えるつもりはありません。法律は憎しみとは別に成り立ちうるもののはずですから。
そこで私が提唱したいのは、法を守るのはいったい誰のためなのかという基本的な問題についての見直しです。真に自立した個人にとって法を守るのはあくまでも自分のためです。
目指すべきは「守りたくないほうは守らなくてもよい、その自由を認めた上で法を破った者にはペナルティーを厳正に適用する」社会。非常識な意見に聞えるでしょうが、これこそ「罪を憎んで人を憎まず」と呼ぶにふさわしい姿勢ではないでしょうか。
逆に従来の常識通り「私は社会のために法を守っている」というプライドを法の運用とからめる限り、人間社会が増幅する憎しみと暴力の循環という地獄から解き放たれる日は来ないでしょう。
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◆ひきコミ・第16号
●文通・・・「パソコン」/「「自助グループ」活動への期待」/「ちー坊より愛をこめて」/他
●手記「逆ひきこもり(3)」
●体験手記「回顧録(下)」/「アザのあるのが本当の自分の顔なのに(1)」
●五十田猛「引きこもりからの自立のしかた」
◇心の手紙交流館(編集)
◇株式会社子どもと教育社(発行)
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ちー坊 〔東京都青梅市 女〕
たとえばもし、君が明日死んじゃったとして周りのみんなはきっと悲しむと思う。
君がボクなんか死んでも誰も悲しまないと思ってるかもしれないけど、それはたぶん違う。君が周りからみられてる自分より君はもっと偉大で尊厳されている。君の命は偉大だよ。
そして本当は君はどこかでそれを知っているんじゃないかと思う。だってそんなに苦しんでいるのだから。なんとも思わなきゃそんなに苦しまないでしょ。
あるいは今いる家族を守るためそんな行動にでていたりするんじゃないか(そんな自覚はないと思うけど)。
とにかく君の行動は必然だったんだと思う。だけどこれからは“君のため”に生きて下さい。君が心から笑う姿を願っています。
貴方は世界で、(この地球上で)たった一人しかいないのだから。
自分、大事にして下さい。
ちょっとずつ、ちょっとずつでいいから……。
例えば対人関係がうまくもてないとか人が恐いとか。全部自己否定とか自分に自信もてないとか、そんなところからきてるように、私は思う。
……だから、貴方が好きなこと、貴方のしたいこと少しずつ、少しずつすることで自分、好きになる。生きてることうれしくなる。人とちがってもいいんだと思う。本当はちがうからいいんだyo。みんなちがう顔して生まれてきてちがう命を持って、それぞれのよさがありそれぞれやれることもちがう。
せっかく生まれてきたのだから!
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ミズキ 〔東京都八王子市 男 38歳 無職〕
「自助グループ」という言葉から私が想像するのは、アルコールなどの依存症やACのためのグループです。
もちろん引きこもった人の全てがACとは限らないとは思いますが、引きこもり者には、長年にわたり共依存的な家族関係の影響下にあった人が多いのではないでしょうか。
私自身は引きこもり者のための「自助グループ」に出席したことはありませんが、引きこもりという社会問題の解決にあたってそのような、あるいはそれに似たような場(『ひきコミ』を含め)が果たすであろう役割には大きな期待を寄せています。
ただしそのためには、ACに限らず現代社会に生きる人たちは「狭さの押しつけにより、強い者に傷つけられ、弱いものを傷つける人間関係」にとらわれている、という共通認識が活動の土台として不可欠ではないでしょうか。
多くの引きこもり者もいわばこのような人間関係に「急性中毒」を起こした人たちと考えられます。アルコール依存の自助グループが酒からの脱却を目標とする人の集まりであるのと同様、引きこもり「自助グループ」の活動目的はこのような人間関係からの脱却であるべきでしょう。
たとえ「場」をつくっても、世話人やメンバーにこのような認識が欠けている場合、それは引きこもり自体を問題活動への嗜癖と見なし、そこからの立ち直りを活動目的とするグループになってしまう可能性があります。
引きこもり問題を生み出した原因を個人の「弱さ、未熟さ」にのみ帰し、現社会に対する批判的な支店を持たないグループは、結局のところ現社会の縮図(カリカチュア)にしかなり得ません。
このようなグループが社会的スキルと称して、共依存的人間関係のストレスに耐える強さを賞揚するなら、これはまるでアルコール急性中毒で倒れた経験を持つ人が少しずつ酒を飲んで耐性をつけているようなものです。
当然そこでの人間関係からは、不適応を起こした弱い者がさらなる孤立に追い詰められるという自体が発生するでしょう。つまり「引きこもり問題の濃密化」です。
一方、私がイメージするのはさまざまな活動を通じ具体的には次のような人間関係を目指すグループです。まず「自由と責任を自覚し尊重し合える」。
第一に認められるべきは「引きこもる自由」。義務感に基づく人間関係にはない「人と関わる自由、喜び、力」を得ることができるのは、引きこもる自由を自覚できた人のみだからです。
その他の自由についても、より大胆な言い方をすれば、お互いのワガママを許し合えるようになることが望ましいでしょう。とはいっても「他人の自由を侵害するようなワガママ」が許されないことは言うまでもありません。
次に「お互いのワガママを調停できる」。お互いの対等な自由がぶつかり合うところには、当然ある程度の摩擦は予想されます。それを「悪いのはどちらか」という問題にすり替えたり、感情的に相手の人格を攻撃したりすることなく主張的に交渉し、ときには妥協する能力。これこそ「社会的スキル」と呼ぶにふさわしい能力といえるでしょう。
ここでは「自分は傷ついた―だから悪いのは向こう」といった短絡した主張は認められません。
さらにこのような人間関係の重要性に理解を示す人たちには、引きこもりの経験の有無を問わず門戸を開くのもよいのではないでしょうか。
思えば個人の欲望(=ワガママ)を調停したところ以外に、絶対的に「正しい社会」が存在する訳でもありません。個人が自由を持て余し「許されるべきワガママ」さえ言えないような共依存的人間関係の下では、民主主義も正しくは機能しないでしょう。
こう考えてみると、むしろこのような引きこもり者のグループが「社会の病理」から脱した新しい人間関係のモデルとなる可能性さえあながち夢ではなくなってくるのです。
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パンダ 〔三重県員弁郡 女 26歳 家事手伝い〕
私はそううつ病と不眠症抱えていますので、病気を持っていない人には気持ちが伝わらず、家にいる事がほとんどです。
本読んだり、音楽聞いたり、家の事したり、最近パソコンを買ったので、いじくってる時間も増えました。ネットしたり、メールしたり、でもメールはケイタイの方が早いですね。慣れてるから。
顔の知らないペンフレンドや、メル友がいて、それで幸せだと思います。パソコンを買ったということで、パソコンにくわしい人、文通して頂けませんか? 機械音痴なので、気長に付き合いしてくれる人探しています。
パソコンくわしくない人でも、持っていない人でも、お手紙頂けると嬉しいです。返事は書かせて頂きます。
どこに住んでても、男性でも女性でも、何歳の方でもよろしくお願いします。
26歳最後の投稿になります。次は27歳になってしまってまた投稿したいです。
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◆ひきコミ・第15号
●文通・・・「Letter下さい」/「かけがえのない貴方へ」/「見極める眼、取捨する腕」/「「よい子」いまだ開放されず」/「昨年の師走のとき」/他・21通
●手記「逆ひきこもり(2)」
●体験手記「回顧録(上)」
●五十田猛「不登校情報センターの到達点」/「あゆみ書店を開店して」
◇心の手紙交流館(編集)
◇株式会社子どもと教育社(発行)
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とべないホタル 〔石川県河北郡 女 30歳〕
皇太子様、雅子様、新宮様のご誕生おめでとうございます。心から喜び、健やかなる成長をお祈り申し上げます。
師走…1年に1番あわただしく忙しい季節。時が経つのは早いもので今年も1か月を残すのみとなった。アフガニスタンへの攻撃、アメリカの同時多発テロ、わが国も不況、狂牛病、大阪府池田小学校惨殺事件と、暗い影を落とした。
TVで毎日のように尊い命が簡単にうばわれてしまうニュースを見ると胸がひきさかれるような悲しい気持ちになる。
まっすぐでキラキラと光り輝く瞳の子どもたちの笑顔を幸せを祈らずにはいられない。
私達の住む地球はいったいどうなってしまうのか。課題が山積み状態、本当に大変で、生きにくい時代となった。そんな中の明るいニュース、新宮様の誕生は人々の心の希望、光となった。明るい未来がおとずれますように。
一人ひとり今何が大切か、できるのか考え、一つ一つ実行していこう。そして平和で豊かな社会をつくろう。
町のあちこちにクリスマスツリー、イルミネーション、クリスマスソングが流れている。どんなに疲れていても、落ちこんでいても元気になれる。つい見とれて立ち止まってしまう。一年の大イベント、クリスマス。そう恋人達のロマンチックなひととき、家族団らん、コミュニケーションの大切なひととき。一人じゃ淋しい。人はぬくもり求めてる。一人じゃ生きられない。人は人によって生かされているんだね。
今私は年賀状を書き始めている。一人一人の顔を浮かべ心をこめて、下手でも手書にかぎる。一年に一度の感謝の気持ちをこめたラブレター? 年末の大そうじ。一年の汚れ、ほこりとり。心も家もすっきり、気持ちがいい。新しい年を迎えるための準備。大変だけど楽しい心ワクワクする。
皆にとっては今年はどんな年だった? 私は新しい人生、新しい自分にになるための始まりとなった。明るく元気に笑顔忘れずに これからもヨロシク。来年は皆にとっていい年でありまうように。世界中の子ども達がサンタさんからプレゼントがもらえますように。
今年一年下手な私の手紙読んでくれてありがとう。寒さに負けずかぜをひかないでね。また会おうね。
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ミズキ 〔東京都八王子市 男 38歳 無職〕
子どもはよい子プレッシャーという大人の甘えから逃れることができません。私も絶えず「学校へ行きたいんでしょ、勉強したいんでしょ、どうなの? 」とYESと答えることしか許されぬ質問をつきつけられてきました。
つまり形の上だけ自分の生き方を決める自由を認め、事実上はそれを剥奪しようという、いわば詐欺的カラクリに縛られてきたともいえるでしょう。
現在引きこもりに限らず「生き疲れた」と感じている子どもや若者が増加しているといわれています。表現こそ紋切り型ですが「自分はよい子を演じていた」という実感は彼らの多くに共通してあるようです。
彼らが「よくない子として生きる自由」と「よい子の疲労を癒す機会」をいかに奪われ続けてきたがを如実に示すものといえるでしょう。
それでは大人になった今、二、三十代の引きこもり者はこのプレッシャーから開放されたのでしょうか。相変わらずよい子と思われるために社会のいう「しなくてはいけないこと」を自分が「したいこと」のように言い換えてはいないでしょうか。「できないことはしない」と意志的に主張する自由を放棄してはいないでしょうか。
自分自身の経験と照らし合わせても私は、このような自分の嘘、あるいは嘘とも呼べない無意識のタテマエを見破る眼を勝ち獲るためには、十分な時間をかけて一人自分の心と向き合う体験が必要だと思います。
しかしこのような体験の必要性は広く一般的に理解されているとはいえません。それどころか残念ながら引きこもりに対する偏見の側ではなく、「あくまでも善意の支援活動」によってわれわれはこのような体験を持つ機会をしばしば逃してしまいかねないのが現状です。
たとえ善意によるものであれ「引きこもり=間違った生き方」という「切断操作」的発想に基づいた対応は、引きこもり問題に固定・濃密化しかもたらさないであろうことは第7号で指摘した通りです。
去年の秋あるテレビ番組内で引きこもり支援活動に携わるあるカウンセラーによる「彼らはみな社会に復帰したいと望んでいる」という意味の発言がありました。引きこもりの当事者の多くはこの発言を好意的なコメントとして歓迎するかもしれません。
しかしこれも前に述べた通り私は無条件に現社会に復帰するつもりはありませんし、この確かに悪意からではないにせよ、結果的には問題の核心をすり替えてしまいかねない発言には若干疑問を感じました。
「引きこもる自由」がいまだ認められぬ現在、一部支援者は社会の批判におびえる引きこもり者に対してあまりに無自覚に「社会復帰かさもなくば反逆か」という踏み絵を迫ってはいないでしょうか。
「大人の甘えに応える元気がまだ残っている者だけを是とし、救済しよう」という支援者の活動方針に置き去りにされ、あるいは追い詰められる「一番疲れた者たち」はどうなるのでしょうか。
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