テレビで東北の被災地からの報道番組がありました。
報道されたのは酒造メーカーの所で、津波に流されて工場がなく、工場跡にはわずかなモロミが残っていたそうです。
工場主は、そのモロミを手に再生を誓っていました。
一緒に母親とそのテレビを見ていた30代の引きこもっている子どもが「どうして?(どのようにして)」と聞いたそうです。
何もない状態でどこから手をつけるのか、さっぱりわからないではないか。
それが「どうして?」という言葉になったようです。
聞いた母親は少し嬉しかった、ほっとしたといいます。
子どもは何も考えていないわけではない、という思いがしたのです。
「お母さんはどう答えましたか」
「突然で、これという用意がなかったのですが、…公共機関に相談に行くとか…」
「テレビではどうでいたか…」
「取引先の人からいつごろできるのか問合せがあったようです。それで何とか再開したいと思ったようです」
待っている人がいる、待っている仕事がある……これはこのブログ3月15日に紹介したフランクルの『夜と霧』のなかの言葉と同じです。
絶望的な状態においては自分のなかから意味が出るのではなく外から意味が出てくる、フランクルは実体験からそう語ったのです。
本人が何もできないのなら、外にこの状態をつくりたいです。