●文通番号3-18 わが道に迷いなし
ミズキ [東京都八王子市 男 37歳]
私は大学二年の時落ちこぼれて以来、現在に至るまで十数年間にわたり引きこもり生活をおくる37歳の男性です。
学生時代のアルバイト以外に就労経験はなく、現在も無職。同居中の親ともほぼ絶交状態にあり、医師やカウンセラー以外の人と話す機会もほとんどありません。
しかし少なくとも現在の私は、自分を特に不幸な人間だとは思いません。私は私なりに目まぐるしく、慌ただしい社会に適応している人にはわからない幸せを実感しながら、1日1日を生きています。生きる欲望、理由、目的を見失って途方に暮れていた当時は、言葉にうまく表現できませんでしたが、私の場合この社会に対する違和感が、このような生活に入った動機というか原因の一つであったことは確かです。
ある価値観に基づいた生き方を個人に強制する今日の社会は、常にそこから切り捨てられ、踏みつけられるべきスケープゴートの存在抜きには、そもそも成立しえないシステムなのではないかと私は考えています。
例えば子どものころわれわれは周りの大人たちに教えられました。「頭のよい人間になれば社会が幸せにしてくれる」。だから「人はみな社会のために頭のよい人間にならなければならない」と。
しかし「頭がよい」というプライドと引き換えに社会がわれわれに与えると約束した幸せとはいったい何だったのでしょうか。「社会のために苦労して」頭のよい人間になった人が幸せを実感するためには、頭の悪い人の不幸を確認し、協調しなくてはなりません。そればかりか時には彼ら自身の手で、頭の悪い人を不幸にしようとすることさえあります。
そのほか能力、容姿、ライフスタイルに関わるさまざまな「社会的プライド」が、学校、職場、家庭といった場で常に「他人と分かち合えない幸せ」に人びとを駆り立てているのです。
あなたの周りにある「人はみな……でなくてはならない」という命題について考えてみてください。それは誰が決めたものですか? あなたを含めた誰かですか? あなたは本当にそれに従わねばならないのですか?
すべては「チャンスがあれば他人を出し抜いて自分が幸せになろう」というゲームに自覚もないまま引きずりこまれている人たちが、勝手に決めたことではないでしょうか。
学校教育というマインドコントロールから解けた今、私は確信しています。そのようなゲームに参加するかしないかは個人の自由意志と自己責任の下に決定されるべきことです。望まぬ者をゲームに引きずり込む自由など誰にもありはしない、と。
このような意見は社会の側からみれば「自分の不幸の責任を社会に転嫁している」だけにしか聞こえないかもしれません。しかし「引きこもり」が頻繁にマスコミを賑わすほどの社会問題にまでなった原因の少なくとも一部は「人はみな引きこもってはいけない」という命題を垂れ流し、結果としてさらに深い孤独へと多くの若者を今なお追い詰めている、当の社会の側にあるのは明らかでしょう。
自分以外の誰かに変わろうとしてあせっている人、いませんか。あなたが変われなくても世の中が先に変わるかもしれません。こんな社会やその手先であるマトモな大人に、救いなんか求められないと感じるあなた、「引きこもって何が悪い! 」ときどきそう叫びたくなるあなた、私は間違いなくあなたたちの味方です。
今では誰よりも自信に満ちた足どりで、自分の人生を歩んでいるこの私の力を、みなさんにもぜひ分けてあげたい、そう思って私はこの文章を書いた次第です。
☆ ☆ ☆