1993年に『登校拒否関係団体全国リスト』の発行のまえがき「登校拒否は教育と社会をゆるがす」のなかで私はこう書きました。
不登校を経験した「彼ら、彼女らの手記を読んでみるといい。その手記の内容の重さは、感動的である。この手記の多くからは、彼、彼女がいかに人生に対して真っ正面から立ち向かっているのかが伝わってくる。人間としての、繊細さ、やさしさ、深さ……が自分の苦しみとして語られている。小器用に素通りできないのだ。
この子たちは社会についていけないのではない。むしろ、社会のゆがみについていけなかった、いけないのではないのか?」
社会への不適応が問題であり障害になるとして適応を目的とする不登校対策に疑問を持った私の不登校の理解です。
不登校の高校生の体験記を出版するとき(1998年)に次のように書きました。
「若者は多数決民主主義の限界や形式性を鋭く拒否しています。彼らは時には多数決民主主義の被害者です。
多くの不登校生が通り過ぎた世界では、善意ではあっても一方的であり、異議申し立ては少数意見として尊重されていません。長いものに巻かれ、主体的に参加できない与えられた民主主義の場でした。
この体験手記は、一人ひとりの体験を通して、日本社会のこの形式性を浮きぼりにしてくれます。平和、協力、家族、学校、教育、人間関係…を一人ひとりの現実、新たな視点から見る材料になるものと思います」。
彼女らが示しているのは、その集団や社会において最も弱い立場にある人が尊重されなければ、民主主義は実現しません。民主主義における多数決原理を否定するものではありません。しかしそれが社会集団や一定の地域や学級において最も弱い条件の人や子どもを守れないのであれば、民主主義には値しなくなるのです。これは利益追求型の企業社会の重要な弱点かもしれません。
この2点は不登校に関わるなかで、とりわけその経験をした人と関わるなかで私が知り、学んだ重要点です。
30日の進路相談会で主催4名によるパネルディスカッションの場ではこれに関する発言はしていません。感じながらその場に座っていました。今回はその関連記述の2とします。