愛知なのはな会の講演準備

1月20日に愛知県の引きこもり親の会・なでしこ会に招かれて「長期化するひきこもり支援活動」を話す予定です。
準備のために事前質問をお願いしていたところ、同会が会員の調査でまとめた「ひきこもり実態調査及び社会参加促進事業」調査報告書を参考にするよう連絡がありました。
報告書はA4版108ページの詳しいものです。会員の過半数を超える58名へのアンケートと聴き取り調査をしたかなり綿密な報告です。
私が事前質問でお願いしたこと以上に、調査では多くの面が明らかにされています。1月の講演会の参加者の状況はここに表れています。
私の話しは不登校情報センターの活動経験です。特に収入につながる活動をめざす取り組みとその背景(下準備や条件づくり)を具体的に話したいと思います。そして「なでしこ会」も何らかの形で当事者が収入につながる取り組みを始めるきっかけになることを期待しています。

青年期とは何かーその1

大人の引きこもりを考える教室・第8回講義要綱です。
乳幼児期、思春期のところを考えてきましたがいずれも不十分と思いつつも先に進んで青年期のところも視野に入れて考えなくてはなりません。この後に成人期とか中年期が表われるのですが、これは人間の生涯発達という発達心理学の考え方によるものです。
思春期は青年期に一部にあたり、前期青年期とされることもあります。

さて問題の青年期です。「大人の引きこもりを考える」とか20代後半以上の引きこもりを考えることは、まさしく青年期の課題になるからです。
いくつかの本を読んでいるのですが、青年期はこれまでは青年期が20代の前半まででした。それが今日では30歳までとか30代前半までに延長されているという評価や考え方で一致しています。これは生物学的な条件による人間発達ではなく社会的な条件による人間発達であるからです。もし生物学的な条件であるならば日本人は最近の30年間に、生物として大変化を遂げたことになります。しかしそうではありません。
振り返って考えるならば、日本において青年期が存在するようになったのはたぶん明治期以降であろうと思います。それ以前には青年期というものは基本的にはありませんでした。江戸期までは元服という成人になる儀式がありましたが、15歳あたりです。女性が結婚をし始める年齢も15歳あたりからでした。「15で姉(ねい)やは嫁に行き」という歌もありました。
その青年期が30代まで延びたわけです。しかし、個人差はあり、その差もかなり幅があるという印象を持ちます。これまでの青年期論はこの青年自体の変化によって変更を迫られています。一般的・画一的な青年期論は成り立たないという人もいます。

その青年期の課題とは何でしょうか。
一般的・画一的な青年期論ではなく個人別のオーダーメイドの青年期論が必要となるといわれても何らかの基準がないと考えようもなくなります。そこで従来の青年期の課題をみたうえで実情にあったものを探す作業になります。長期の引きこもり経験者には乳幼児期や思春期の課題が未解決・不燃焼のまま残っているとして見ていくことになります。いやおうなく個人別の生育歴をたどることが迫られていくのです
思春期は体の成長に基づく男性・女性の成長と社会性の萌芽の時期です。それをルソーは第2の誕生といい、ゲーテは疾風怒濤の時代といいました。それに続く青年期は個人としての人格が形成され、家族を持ちうる社会性を備えた人間発達を遂げるのが課題となりそうです。より詳しいことは次回にしましょう。

第8回「大人の引きこもりを考える教室」
日時:12月9日(日)午後1時~3時。
場所:不登校情報センター(TEL03-3654-0181)。
参加対象者:引きこもり当事者の親、当事者本人、支援者や学びたい人。15名。
参加費:500円。
「家族から見た周辺履歴書」を書いていただいた人がいます。それを含めて状況交流をします。

TOSCA社会参加事業に学ぶ

東京都発達障害者支援センターTOSCAの支援者育成講座に参加いたしました(12月5日)。
事例報告「社会参加が困難な人へのかかわり」を聞きました。
TOSCAでは相談事業をしながら、3年前から当事者向けのミニワークも行っています。週2回で参加者は7名ほど。そのなかでの生まれていることが報告内容です。30代のアスペルガー障害者Aさんへの対応実例が発表されました。Aさんが対人関係において問題にする相手の事情を支援者が相手に代わって説明しない点を「ニュートラルな」スタンスで受けとめる重要性を話しました。支援者が代理説明するとAさんは支援者を相手の代弁者に受けとめてしまい、支援者との関係がうまく成り立たない実感を話しました。これにはAさんの言うことを軽く受け流さない、などいくつかの状況や事例も含まれています。

実はこれは私が実感していることと同じです。私はこれを長い間あまり意識をしないでやってきたように思います。カウンセラーのIさんは「松田さんは松田さんでいいんですよ」といいましたが、たぶんこのあたりのことを指しているのだと思います。
少年時代から私はこの感覚を“公平”ということでやってきたと思います。不登校情報センターを始めて数年したあたりからは「それはその人にとっての真実」という理解のしかたで当事者の言い分を受けとめようとしてきました。

そうなったのはこんな“事件”をいくつか経験したからです。
「ひきこもりの子どもと話をするとき、私は親側の代弁者の役割も兼ねています。子どもの見方70%、親の見方20%ぐらいでしょうか。
ところが、この姿勢は子ども側からはとても強い反発を受けます。「親の肩をもっている」と激しく責められたこともあります」(『ひきこもり 当事者と家族の出口』子どもの未来社、2006年、149ページ)。
支援者は親や周りの人との仲介役になる前に当事者の味方でなくてはならないのです。その結果が「それはその人にとっての真実」という理解でなければできないと思ったわけです。
私が“公平”という自然感覚に重ねて“当事者の味方”を置くようになったのはこれらの経験によります。Iさんにはそれが私の自然状態に見えたのではないでしょうか。TOSCAの発表者はそれを言葉で表現してくれました。

そういう支援者へのスタンスも含めて、そしてミニワークとして展開しているTOSCAの実例は、不登校情報センターにおいても展開していることです。
講座を終えた帰りに一緒に参加した藤原宏美さんがこういいました。「トカネットの訪問活動も含めて不登校情報センターのやっていることはTOSCAと同じじゃないですか。不登校情報センターは意外と進んでいますね」。
おおよそその通りだと思います。トカネットの訪問サポートはTOSCAを超えている活動ですが、就業に結びつける系統性がないのが不登校情報センターの不足です。それに代わって不登校情報センターには居場所の基地として当事者の仕事づくりがあり、その程度によってはいい線をいくかもしれません。TOSCAのミニワークと不登校情報センターのサイト制作を対比すれば似たようなものかもしれません。しかし、満足できない状態であることもまた確かです。