対個人サービス=家政婦への道

14日の「未婚主婦業ってありうるか」について、疑問と賛意が届いています。1件はコメントとして書き込まれましたので、掲載しました。
これを受けて私は16日に「当事者の感覚を生かして進む」を書きました。
今度は“がめら”さんからコメントを寄せていただきました⇒コメントを見てください。
要点は、①無収入の「主婦業」は職業としては成り立たない、②昔からあった職業に家政婦がある、③「自分だけが納得するような家事」は家政婦としては無理、という意見でしょう。
① は、その通り収入の得られる職業にはなりません。*世の多くの主婦は無収入です。
③は、当事者の途中経過かもしれません。いずれ「自分だけが納得する」家事の範囲を超える可能性はあります。家政婦レベルはともかく、家族や近しい人に歓迎されるレベルの人はいます。

可能性としては社会参加の道として主婦がしている家政業への道が考えられることです。これまでの長期の引きこもりの人の社会参加の方法として「家政業」を考えたことはありませんし、それをめざしている支援団体もしりません。ですから確信を持っていうことは控えなくてはなりませんが、可能性としてはありうると思います。
私は一昨年来、「対個人サービス業」が引きこもり経験者の職業選択の中でかなり有効ということを感じ、実例を書いてきました(2011年8月)。そして家政業もそれに近いかそれに含まれるように感じています。それに至るにはそれなりの道を超えなくてはなりません。これに気づいたことは一つの発見のように思います。
また、無収入の主婦の道も完全に閉ざされているわけではありません。

ここでコメントを書いていただいた以外に聞いた異論・疑問を2つ書いておきます。
④主婦業には基本的に子育てがつきものですが、この主婦業は子育てがないことが前提になるのではないか。
⑤この主婦業論は新手の男女分業固定論ではないか。
この2つの意見をすぐに否定するつもりはありませんし、同意もしかねます。問題が大きくていろんな事情を見なくてはなりません。いまは指摘を受けていることを報告し、いつかこれに立ち戻って考えてみるつもりです。

当事者の感覚を生かして進む

14日の「未婚主婦業ってありうるか」にコメントをいただきました。コメントの意見と私の考えていることはそう違いはないのですが、当事者と“支援者”の違いがあります。少し丁寧に説明したくなりました。
これは13日の行った第9回大人の引きこもりを考える教室の様子を追加報告することになります。

当事者が動き出すと一歩前進した状態になります。それは基本的には「そのままの自分」を肯定的に受け入れるものであり、「そのままの自分から変わった自分」によって達せられるものではありません。
家事などに動き出した引きこもる女性が変わってきたのは、自分への肯定感によるものです。それは手探り状態の不安定なところから始まりますが、周囲にはその状態を見るにつけ二歩も三歩も先に進んだ状態を考えてしまう人がいます。それは不当な干渉です。自分の課題であって、誰かの課題にすりかえられたくないものです。一歩進んだところの自分で体感し、自分で考えていくものです。それには試行錯誤や納得や定着のための時間が必要です。
他から指図を受けたくはないし、周囲の人は尋ねることに答えてくれれば感謝したいほどのものです。それを参考にできるかどうかは、自分が自分の状態と相談しながら手探りでたどっていくものです。
引きこもりを考える教室のなかで話したことではここは重要点です。先を読んで家族や“支援者”が先手をとらないで見守る意味や役割はここです。
しかし、“支援者”が当事者と同じでは力量不足です。その状態において先を見通す、選択の可能性や見当をつけておくことが求められます。そうでなければ質問されても何も答えることができません。答えると言っても頭の中にある回答を提出することではありません。当事者のたどる道を一緒に歩き応援するような感覚です。「未婚主婦業ってありうるか」は見当がつけられない私の状態を書いてもいるのです。私はこの問題に力量不足を示したのです。

第9回大人の引きこもりを考える教室の参加者は親8名、当事者などが5名の参加でした。なお1月3日書いた講義要項はかなり書き直し、総とっかえをしました。次回は2月10日(第2日曜日)です。