株式・トレーダー・FXの運用

引きこもりながら、株式投資、トレーダー、FXの運用などをしている人がいます。主に親からの相談や状況報告としてこれまで数人から聞いたことがあります。
株式投資は、会社株式を購入し、株券の値上がりにより利益を得ようとするものです。
トレーダーとFXの区別を私はよくできません。通貨である円、ドル、ユーロなどの交換レート(為替)の変化による差額を利益として得ようとするものでしょう。トレーダーは通貨だけではなく商品などが対象になることだったでしょうか。違うかもしれませんが…。

私はこれらに関しては知りませんから積極的に勧めたことはありません。ある当事者が株で儲けたといって家族にプレゼントをした、家族からその話しを聞いたことがあります。
ある人は株式を始めようとして家族に資金援助を申し出た。これについてどう思うのかという質問を受けたことがあります。具体的なことはいえませんでした。
昨年、30代の長期の引きこもりの人が、トレーダーをしたいので家族にある程度の資金を出してほしいと聞きました。本人から出された初めて意思表示のようです。このとき私は親が「できない・やめなさい」とだけ答えるのは拙い、もしかしたら何らかのチャンスになるかもしれないと思いました。しかし、親はこれには答えないまま自然消滅したようです。その人は家計を見たり、特に高額商品についてはネット情報を集めて相談に答えるようなタイプの人です。それだけに自然消滅は、私には心残りがするものでした。結局はどうにもならなかったかもしれませんが、何かのもくろみがあるのではないか、動きだす手がかりにする気持ちがあったと思えるからです。
この他にも何人かからこの手の話を聞いたことがあります。いずれも私にはよくわからないままです。それに乗っていくことはできませんが、気持ちの変化を感じ、人や社会とつながる道が開けると考えてしまうのです。

30代の当事者で実際に株式投資やFXをしている人から様子を聞く機会がありました。聞いていく要点がわからないので、聞いたことはごく平凡なことです。
(1)動機はお金が欲しい、ということに尽きるようです。
(2)各国の政治的な状況を知る必要が出てきます。それが通貨に影響していきます。具体的な企業や商品の動きまで追いかけることはしていないそうです(株はそうとばかりは言えないはずですが)。
(3)大きな事件のときは焦る感じがあるそうですが、それよりも長期的な姿勢で低リスク・低リターンをねらっているそうです。毎日忙しく運用するよりも、できるならば誰かと相談しながらやるほうが安心感もあるし、長期的な視野の運用にはよさそうです。この人の場合は、そういう一緒にする相手がいないといいます。
(4)FXには、実際にしなくても、架空の試験運用方法があります。それをしてみると結果として儲けたのか、損失なのかがわかります。ただそういうお遊びは真剣味がなく、意外と勉強にはならないということです。
(5)仮にバイトをしたら月額8万円として、運用の損失額がそこに達したらやめる、という方法をとってはどうかと言っています。本人はこれまではそこまでの損失はしたことがないそうです。自分の貯金などの持ち金の範囲で安全運転をしています。
(6)初めはともかく慣れてくるとハイリスク・ハイリターンに軸が動きます。危なくなるのはむしろその後ではないかと思います。

対個人サービス=家政婦への道

14日の「未婚主婦業ってありうるか」について、疑問と賛意が届いています。1件はコメントとして書き込まれましたので、掲載しました。
これを受けて私は16日に「当事者の感覚を生かして進む」を書きました。
今度は“がめら”さんからコメントを寄せていただきました⇒コメントを見てください。
要点は、①無収入の「主婦業」は職業としては成り立たない、②昔からあった職業に家政婦がある、③「自分だけが納得するような家事」は家政婦としては無理、という意見でしょう。
① は、その通り収入の得られる職業にはなりません。*世の多くの主婦は無収入です。
③は、当事者の途中経過かもしれません。いずれ「自分だけが納得する」家事の範囲を超える可能性はあります。家政婦レベルはともかく、家族や近しい人に歓迎されるレベルの人はいます。

可能性としては社会参加の道として主婦がしている家政業への道が考えられることです。これまでの長期の引きこもりの人の社会参加の方法として「家政業」を考えたことはありませんし、それをめざしている支援団体もしりません。ですから確信を持っていうことは控えなくてはなりませんが、可能性としてはありうると思います。
私は一昨年来、「対個人サービス業」が引きこもり経験者の職業選択の中でかなり有効ということを感じ、実例を書いてきました(2011年8月)。そして家政業もそれに近いかそれに含まれるように感じています。それに至るにはそれなりの道を超えなくてはなりません。これに気づいたことは一つの発見のように思います。
また、無収入の主婦の道も完全に閉ざされているわけではありません。

ここでコメントを書いていただいた以外に聞いた異論・疑問を2つ書いておきます。
④主婦業には基本的に子育てがつきものですが、この主婦業は子育てがないことが前提になるのではないか。
⑤この主婦業論は新手の男女分業固定論ではないか。
この2つの意見をすぐに否定するつもりはありませんし、同意もしかねます。問題が大きくていろんな事情を見なくてはなりません。いまは指摘を受けていることを報告し、いつかこれに立ち戻って考えてみるつもりです。

当事者の感覚を生かして進む

14日の「未婚主婦業ってありうるか」にコメントをいただきました。コメントの意見と私の考えていることはそう違いはないのですが、当事者と“支援者”の違いがあります。少し丁寧に説明したくなりました。
これは13日の行った第9回大人の引きこもりを考える教室の様子を追加報告することになります。

当事者が動き出すと一歩前進した状態になります。それは基本的には「そのままの自分」を肯定的に受け入れるものであり、「そのままの自分から変わった自分」によって達せられるものではありません。
家事などに動き出した引きこもる女性が変わってきたのは、自分への肯定感によるものです。それは手探り状態の不安定なところから始まりますが、周囲にはその状態を見るにつけ二歩も三歩も先に進んだ状態を考えてしまう人がいます。それは不当な干渉です。自分の課題であって、誰かの課題にすりかえられたくないものです。一歩進んだところの自分で体感し、自分で考えていくものです。それには試行錯誤や納得や定着のための時間が必要です。
他から指図を受けたくはないし、周囲の人は尋ねることに答えてくれれば感謝したいほどのものです。それを参考にできるかどうかは、自分が自分の状態と相談しながら手探りでたどっていくものです。
引きこもりを考える教室のなかで話したことではここは重要点です。先を読んで家族や“支援者”が先手をとらないで見守る意味や役割はここです。
しかし、“支援者”が当事者と同じでは力量不足です。その状態において先を見通す、選択の可能性や見当をつけておくことが求められます。そうでなければ質問されても何も答えることができません。答えると言っても頭の中にある回答を提出することではありません。当事者のたどる道を一緒に歩き応援するような感覚です。「未婚主婦業ってありうるか」は見当がつけられない私の状態を書いてもいるのです。私はこの問題に力量不足を示したのです。

第9回大人の引きこもりを考える教室の参加者は親8名、当事者などが5名の参加でした。なお1月3日書いた講義要項はかなり書き直し、総とっかえをしました。次回は2月10日(第2日曜日)です。

想造展WEB版を企画します

創作活動をつづけている人から、作品の送付と発表のしかたの提案を受けています。
サイトにおける当事者の作品発表の現状はかなり見劣りします。この提案に刺激されて改善策を考えているところです。
(1)これまでに出来ているのは「体験手記」などの主に文字によるものです。これも構成部分に継続します。
(2)あゆみ雑貨店には、販売可能な作品が掲載されていますが、出点数が少なく、盛り上がりが見られません。販売作品にかぎらずに紹介するページを充実させます。
(3)これまで5回開いてきた創作展の展示状況などが保存されていますが、公開されているのは一部にとどまります。これを整理して公開します。
(4)今回の提案は、作品の画像を生かしたものです。これをチャンスに創作関係のページ全体を活性化する機会に出来る可能性を感じています。
(5)ページの名称を「片隅にいる私たちの想造展WEB版」を考えています。
◎この機会に、創作活動をしている当事者からの作品提供提出、WEB制作への参加、作品集づくりの相談、そのほかの提案を歓迎します。連絡のうえ話に来てください。遠方の方はメールやFAXでお願いします。
不登校情報センター|TEL:03-3654-0181、FAX:03-3654-0979、メール:open@futoko.info
〒124-0024東京都葛飾区新小岩2-3-11-503 まで。

アスペルガー等の経験者発表会

1月6日「発達障害の経験発表会」を行うと書きました。
そして、その2月11日の発表者が少ないので“公募”もしました。さいわい発表してもいいという方から連絡がありました。さらに発表できる人を募集します。合計5名ぐらいはいた方がいいからです。メールで連絡をしてくれた方への返事のコピーを載せておきます。こういう主旨の企画です。

自己紹介として、お名前(ニックネームやHNでも)、年齢(30代とか、20代後半など)と住所(これもおおよその)を教えてください。発表においては、①自分にとってはありがちなアスペルガー的な体験、②印象的か象徴的なアスペルガー的体験、この片方か両方の実例を話して欲しいので考えておいていただけませんか。後は参加者に質問をしていただき、自分の場合に即して答えていただく役割になります。
当事者以外の出席者からは参加費500円をいただきますので、それは発表者に等分にわたします。1人3000円になれば御の字ですので、あまり当てにはしないでください。それ以上にアスペルガー症候群を理解していただく機会、アスペルガー症候群の自分を肯定的に考えられる経験になればすばらしいです。それがねらいの発表会です。

未婚主婦業ってありうるか

引きこもり状態から通常の主婦業コースをめざすと見える30代の女性がいます。
思い起こすとそれに近い状態の人が何人か思い出されます。個人差があるので、聞いた状態を項目別に分けて挙げてみましょう。このいくつかの組み合わせが特定の女性の場合になります。
(1)食べ物への関心や食事づくり、食器の整理や洗い方をしっかりしようとしている。
(2)家族のこと、特に健康面に気遣いが大きくて少し心配性ではないかと思う人。保険なんかも詳しい人がいます。
(3)衣類のことに関心を向けて洗濯をよくする、部屋の掃除をよくするようになった。
(4)家計をしっかり管理するタイプで、お母さんが「もう少し手綱をゆるめて欲しい!」と悲鳴を上げているタイプ。
これらのことが前に比べて動くようになった、変化している面として家族は話します。その結果、ときにはきょうだい間で衝突になったり、父親が敬遠される事態も発生することがあるようです。
このまま進むと主婦業としてやっていけると思えるのですが…。ただ主婦となる相手の夫となる人との出会いは別問題です。単身主婦、未婚主婦というのもありなのか、私が勝手に先走って考えているだけなのか。「大人の引きこもりを考える教室」で話された1人女性の実例に方向をつかめず、返事ができないままになっています。

ベッドの上で迎えた成人の日

20歳のH君は病院のベッドの上に横になっていてほとんど動けません。
訪ねていった直後に看護師か介護師か2人の職員が「体位交換します」と言って病室に入ってきました。
掛け声とともに彼の体を動かした後、会釈をして出て行きました。
その後、ベッドの横の椅子に腰かけて、退屈かな? と声をかけると何か言いたそうです。
「ぼくは社会に入っていけますか?」とつぶやくように聞いているのです。

少し考えて、さっきの看護師さんか介護師さんに「ありがとう」って言えるようになるのが、社会への入り口かな、と答えました。
Hくんはこれが質問への答えかどうかわからなかったのかもしれません。
社会というのは人間からできているの。身近なところにいる人に声をかけ、声をかけられたらできる答えを返していく、自分が社会に入ることはそんなことかな。
こんど看護師さんや検査の人がきたら、自分の体の様子とか、さっきのような体位交換のときに“重たいですか”とか声をかけてみてはどうかな。そうすれば職員さんは何か言ってくれるよ、それだけで社会に触れていることになるから、そういうのを繰り返すと知らないうちに社会にはいっている自分になるね。

明日(14日)は成人の日です。ベッドの上で成人の日を迎えるHくんもまた社会への入り口を探していたのです。ようやく話せる元気が出てきたのでしょう。

体罰教育は何を教えるのか

体罰を重要原因とする高校生の自殺事件が注目されています。
体罰でなくなった生徒に対して、体罰を行った教師は「数回殴った」と言っていたようですが、生徒本人は30回ぐらいと言っていたようです。体罰を行った教師は、体罰の程度を軽く見せようとウソをついたわけです。数回殴ったことが原因で亡くなったなら、1回殴る体罰の重大性をもっと深刻に考えないわけにはいきません。
もしこの教師が生徒指導において体罰を必要と主張するなら、なぜウソをついてまで自分のした体罰の程度は軽かったと思わせようとしたのでしょうか。必要ではあると言いながら、後ろめたさは隠しきれないということではないですか。ウソをつかなくてはならないところに、体罰の決定的なダメさが出ています。
人は、特に子どもは指導する立場の人の言うことによってではなく、すること(行為)によりどうすべきかを学ぶものです。暴力はいけないと言っている人が、暴力を振るっていたら、それは暴力でもって事を進めなさいと教えているのです。体罰という暴力は、生徒に暴力により主張を通すことを教えているのです。なんと悲しい、貧弱な教育方法でしょう。
教育現場でのいじめの原因の1つに、教師の体罰があると言うことになります。学校教育の必要性と向上を願うものとして、教師の体罰はなくして欲しいと切に願うものです。

どうする・どうしないの交流会

第4回不登校の子どもへの対応:ミニセミナー&質疑応答の会の参加者は2名です。都内の中2の男子のお母さんは、以前に別の進路相談会に来たときに顔を合わせたことがある方。「ポラリス通信」を送っていましたのでそれを見て参加しました。もう一人の髙2男子のお母さんは前回も出席です。午後1時から4時前まで、いろいろな状況が出され、田中登志道さんと私で答えました。

回答者2人で微妙にニュアンスが違うと思ったことは、「人と会う」チャンスのつくり方のところでしょう。田中さんはストレスのかかる攻撃を受けて傷つかないことをより大事にしたいと考えて、家で一人なにかをしていても安心できる環境を優先しました。私は安心できる生活の中で、人と会う機会をどうつくるのかの工夫をより重視していることを感じました。

家族旅行について、何かの本にあまりお勧めではないということが書いてあったがどうですか、という質問がありました。
私は、しばらく外出をしていない人は外出をすると外の人に気遣うエネルギーのために消耗が激しく、家に戻るとぐったりする状態はよく見られること、それに慣れることに従い疲れ加減が減っていきいつの間にかそれほど疲れなくなるようになるものという、これまでの事例から、家族旅行自体は反対ではないと答えました。田中さんはそれに加えて、参加するかどうかは本人の気持ちや判断によったほうがいい点を指摘してくれました。

子どもさんのいろいろな状態をどう考える、どうする、どうしないを話し合った感じです。
次の第5回は2月9日(第2土曜日)午後1時からです。予約制ですので参加希望者は〔090-4953-6033 藤原〕までお願いします。

勉強についていけないと放置!

12月17日の「不登校はいつまで続くのですか」の中で「現在の学校の役割は学力に偏重しました。その結果、学習についていけない子どもを大量に生み出す場所になりました」
と書いたのですが、本当か? よくわからない、という話が出てきました。それをテーマに話したのではなく、別の話しの中で出てきたことです。
高校への進学率が95%を超えている、大学への進学率も上がっている、昔に比べてみんな勉強はしている。おおよそこんな感じを漠然と持っているのではないでしょうか。でもそれが相当に見かけ倒しであることもどこかで感じてはいませんか。

今年の年賀状に、ときどき電話をしてくるTDさんからのものがありました。年齢は30を超えている男性です。はがきにあった年賀の言葉をそのまま書いてみます(固有名詞はXXで示していますがひらがなです)。

あけましておめでとうございます
ことしもこんごともよろしくおねがいいたします
おわびのてがみもこめて
一報
XXXXXXのXXXXXXXXをきぼうしています
ことしこそはよいおとしに
せいしんかにかよいとくしゅなびょうきで
おやをなっとくさせおこらないかとも
かんじのじしんがない
中1レベル? 小学生

宛て先と自分の名前は漢字表記されていました。上に書いた文字がバラバラに一部は横書きになっています。社会生活ができない状態を納得させてしまう年賀です。TDさんはそれでも何とか自分の思いを表現しているのです。
この人の場合が特殊な例外ではありません。私はこの段階の人と事をいくつか見聞きしています。それぞれに特別な事情にあります。特別な事情がある人が排除されている社会になり、それは小学校やそれ以前から始まっていると思えるのです。
社会の受け皿が狭くなったと実感します。この1例をもって知育偏重の学校が、大量の勉強についていけない子どもを生み出していることの証拠にするには十分ではありません。
何らかの弱み、欠点、不自然さ…をもつ子どもは、学校や社会から振り落とされてしまうようになった、それをカバーする社会が消滅しつつある1つの実例に挙げることにできると思いました。
「現在の学校の役割は学力に偏重しました。その結果、学習についていけない子どもを大量に生み出す場所になりました」を肯定できる実例を次々に紹介できることは、嬉しいことではありません。他の実例を次々に紹介する気にはなりません。ですが事実をカモフラージュしていてはうまく行かないのではないですか。