ひきこもりの社会参加の仕方から支援方法を考える材料に

MeetAgainの会の案内書をつくりました。案内書には登録用紙も付いています。
これを会報『ポラリス通信』に同封して送りました。受けとった方が不登校情報センターを忘れているかもしれません。それで一言何かを書いた人もいます。それを書きながら、この会の意味するところをあらためて思い浮かべました。4点あります。
(1)ひきこもり支援の特色(社会参加の到達を見届ける必要があるタイプの存在)。
(2)数年を経た後の様子を知る(追跡調査)。
(3)反発が数件は混ざると予測(自立の仕方の独特性)。
(4)文通的な取り組みの新展開。
このうち、(1)の点だけを説明します。

いくつかの傾向の居場所やイベントに出入りしているSくんと話して気づいたことです。
アスペルガー障害などの発達障害の人、セクマイ(性的な問題を感じているマイノリティ)、貧困状態の無職…等の人と比べたひきこもりの特色です。
どの社会グループにおいても個人差があることはあたりまえですから、大まかな特色という意味になります。
ひきこもりの特色は目立たないように振る舞うこと、または振る舞わないで目立たないでいることです。積極性は基本的に期待できません。Sくんのこの観察は私の経験からも納得できます。
新しい社会問題が出てくるたびに、ひきこもりの問題はそれらのあとに回されていきます。
2000年をひきこもりが注目された「ひきこもり元年」とします。
その後、発達障害が注目され、ニートという言葉が浮上しました。この時、引きこもりはこれらに関係すると認識されていましたが、対策として具体的に出てきたのは発達障害に対してであり、ニートに対してでした。ひきこもりはこれらの対策が進むなかで一緒に解決をされるとでも思われたのでしょうか。
貧困と失業、ワーキングプア、セクマイ、虐待の影響、いじめの後遺症、震災による被災などが問題にされるたびに、ひきこもりは背後におかれてきました。「ひきこもりの陰に隠れている発達障害」などと言われましたが、対策において陰に隠れたのは発達障害ではなく、ひきこもりの方でした。
ひきこもりの当事者は自ら動くことは少なく〈基本的に当事者の声を上げることはなく)、待っている状態になります。突出ではなく陥没の形で表現するのですから、目につきません。
心理的または気質として、人に対して気遣い・慎重です。それは周囲の人の感情や気分をきわめて鋭く察知する感受性に関係しています。助けを求める気持ちはありますが、自分の問題を後回しにする傾向が強いのです。そのときどきでそうしてきたことの結果が、社会問題としての対応においても後回しになって行ったかのごとくです。
この気質や心理的な状況は、彼ら彼女らの社会参加の過程にも表われます。
自分を表現する場を求めているはずなのに、人の集まる場は「がまんができるのか」になりやすくなります。社会参加といっても気づいてみると独りでできる状況を求めています。それがある程度(自分なりの忍耐できる範囲)できると、定着できます。
しかし、その状態が長続きできると保障されているわけではありません。何かの事情で乱されると、そこは定着できる条件を喪失します。これは自分の内側の忍耐力との相対的な関係です。その力ができると、少々の変化でも持ちこたえられる場になります。
“ひきこもり支援”は、こういう状況に対応することが求められます。それはかなり長期の性格をもつと思います。ある職に就いたらとりあえず1件落着にはなりません。しばらくしたら舞い戻ってくることはよくあるか、別の形での社会との接点を求める状態に移ります。これは多くのひきこもり支援団体から言われていることです。
MeetAgainの会が成り立つならば、こういう対応の仕方を考える材料になるでしょう。「社会参加の到達を見届ける必要があるタイプの存在」とはそんな事態を見てきた経験から出る言葉です。それもこの会を呼びかける意図の一つです。

〔追記〕このエッセイは文章に加筆修正し「ひきこもり支援の特徴は陥没型の表現に対応すること」として、「五十田猛・論文とエッセイ」ページに転載しました(2015年1月16日)。

「プロフィール」と「メンタル相談」でも前進した1年

Facebookにいただいた「いいね」が200件を超えています。これがどれほどのレベルかは知りませんが、ほとんどFacebook音痴の私には、なりゆきの結果です。これは目標をもって展開できるものではなさそうです。
偶然ですが、もう1つ200件に届いたものがあります。「支援者・講師等のプロフィール」ページで紹介している人たちです。
こちらは何らかの意味をもつほどのレベルに達していません。それでもこの1年間に5割ほど増えました。意図的に集め増やしていく意味はあると思います。
「メンタル相談」サイトに掲載している相談施設数が500件に近づいています。この1年間で100か所以上は増えたはずです。
情報集めと情報提供サイトとしては、「支援者・講師等のプロフィール」も「メンタル相談」も前進になったと評価できます。

会報『ポラリス通信』新年号をつくる

午後の遅くなって藤原さんが来て会報『ポラリス通信』(24号・2015年1月1日)をつくることになりました。今回は、会報の本体には新年のあいさつと1月のスケジュール、「MeetAgainの会」(2月1日)の提案、みんなのパステルアート(1月15日)と夜間中学映画祭(2月)の案内で完成できると思っていたのですが…。
ところが藤原さんは私に何か読み物になるようなものを書くように勧めます。そこで書きましたよ。題して「愛情の表現ができなければ信頼の表現を」というエッセイです(見開き2ページ分)。
印刷と発送は明日いっぱいかかりそうです。

ツイキャス(TwitCasting)を始めるつもりです

5年前にある人に頼んでブログの設定をしてもらい(Yaplogでした)ブログを始めました。そのおかげでワード型の文書作成ができるようになりました。ブラインドタッチはできませんが、文章は考えながら書くものでスピードは問題ではありません。
4年前にWikiシステムをウェブサイト制作に取り入れたので、サイト制作に関われるようになりました。
今回はある人に頼んでツイキャスの設定をしてもらいました。文書はできるようになったので次に挑戦するつもりです。ツイキャスはライブ配信型の動画です。ある意味でハードルは高いですが、初期の技術的な課題は多くなさそうです。
正月休みに練習し、試作をします。ネットの特色は完成を待って進むのではなく、進みながら、試しながら何かをつかんでいくところがあります。仮題として「引きこもりの居場所から」を考えています。見る機会があれば笑ってやってください。

MeetAgainの会(仮称)を提案します

12月19日の忘年会は、以前に通所した人が集まりました。知り合いだけではなく、よく知らないけれども見かけたことがある、名前を聞いたことがあるという関係です。
この忘年会の仕掛け役はトカネットの藤原さんです。「こういう場を、数か月ごとに開いていこう」と藤原さんに話してみました。返ってきたのが「たまにはいいことを言う」と賛成でした。そこで…、
MeetAgainの会(また会おうかい)の企画
名前がないと扱いにくいです。本当はなくてもいいようなものですが「MeetAgainの会」とします。いい呼び名を考えてください。食べ物付きお話し交流会、不登校情報センターのOB・OG会のつもりですが、現在の通所メンバーも参加できます。
第1回の集まり:2015年2月1日(日)の午後2時から9時。長い時間ですから一部分だけの参加できます。
参加者の見込み:5~10名。
場所:不登校情報センター(会場の時間や料金の関係です)。
内容:近況のいろんな雑談、家族とのこと、人間関係のできごと、食べ物情報、町中体験、居場所などの情報交換、ハローワークや就職活動の経験、アルバイト・仕事の中でのエピソード、パソコン・スマホ活用術。家族や社会生活に入って直面したことを話し合います。その交流ができると役に立つことはいっぱい出てきます。
参加条件:適当に食べ物、飲み物をもってくること。他の人と分け合うつもりでやや多めに持ってきてくれると助かります。
食事会になると、100円から300円程度もらいます。これは義務的な条件ではないので、参加できる人たちで食事会にします。
参加の仕方:だれかと待ち合わせる場にするのがいいかもしれません。連絡しようと思っていたけれども適当な理由がない人には、この場に一緒に参加してみようと呼びかけてみるのもいいと思います。久しぶりに顔を合わせる機会です。
注意:なかにはあまり話したくない相手もいるかもしれませんが、無理に話すことはありません。人は誰とも親しい関係になるわけではありませんから。
以上の他に3点を考えています。『ポラリス通信』1月号には詳しく書きます。
(1)「MeetAgainの会」を呼びかける人の冊子(名簿みたいなもの)
(2)不定期・非公式・個人的に集まる提案
(3)『ポラリス通信』への投稿のお願い

理容師などの対人接触の専門職情報を集めます

引きこもっている当事者が行きやすい、または自宅に来てくれる「引きこもり」を理解しようとする眼鏡屋さんなどの専門職を紹介してください。

理容師・美容師、整体・接骨師、眼鏡屋、歯医者、往診する精神科医師など本人が行かなくてならない人(来てもらって直接に見てもらわなくてはならない専門的な人)。
これらが必要なときは、外出動機になることもありますが、それもままならないと困った事態になることがあるからです。
家庭教師以外にもカウンセラー、メンタルフレンドは自宅訪問していますが、これに準ずる役割になるかもしれません。
個人名(または屋号など)と連絡先:不登校情報センターから直接に連絡を取り、紹介していいのかどうか、紹介するとすればどのように紹介すればいいのかをお尋ねいたします。この方を紹介した人としてお名前を出させていただけるかどうかも書いてください。

この情報集めは、このような1回限りの呼びかけでは集まる見込みはありません。継続して呼びかける方法を検討中です。お知恵を拝借したいです。

親子の関係における無償の愛と盲目の愛

ともに見返りを期待しない愛という共通項がありながら(?)、無償の愛は肯定的なものに考えられ、盲目の愛は否定的に考えられるようです。この違いは愛の対象である相手側の事情をどこまで尊重できるのかの違いによります。
無償の愛には相手の事情によっては、自分から離れることも可能性の範囲にあります。
盲目の愛には相手が自分から離れていくことは想定されていないのではないでしょうか。
「自分から離れる」ことの許容性をどこにおくのかにより、無償の愛も盲目の愛もそれぞれ様子が変わります。

子どもがイラストレーターになりたいといったとき、親が「そういう不安定なものではなく、安定的な経理を身につけなさい」と反対され経理学校に入った人がいます。
子どもが職業高校に進学して、機械を扱う工員になりたいと言ったとき、親から「大学に進学してから後のことはそこで考えなさい」と普通高校に入り、法学部への大学進学をめざすことになった人がいます。
十代の子どもの進路選択の場合、このようなことはありうるものです。子どもに判断材料がない、判断できない、まだ子どもがそこまで具体的に決めることは求められているわけではない、親の思惑が別にあるなどの事情によります。
イラストレーターを志望していた人は、その後いろいろな経過をたどり、ある時期に私との関わりができました。しかし、姿が見せなくなったと思ったら親の強い意向によることがわかりました。今は転居して手の届きにくい地域の作業所にいます。
法学部を卒業した人は30代であって、ある日「ニートやってます」と来て話してくれたことです。
親は子どものためによかれとしてきたことでしょう。それは信じますが出発点が違うから行く先も違ったと思えるのです。やさしいタイプの子どもは反発しないし、いろいろあっても親の言うようにしがちです。
だからこそその子が出すことを尊重して進めてほしいのです。すぐに答えや反応はないかもしれません。子どもが遅くなって出した答えでも、それがいちばん早いし、自立につながる確実性は高いです。
自分の子どもである場合、「自分から離れる」といっても親子の関係が消滅することは基本的にはありません。

〔追記:12月25日〕押し付け的な愛情表現も盲目の愛の一種になるという意見です。

親が望む“この道”でなく、子どもが選ぶ“その道”を体験させたい

ある人と話していましたら、不登校情報センターをサポートステーション(サポステ)にしてはどうですかと提案されたことがあります。
そのとき、「いまの自分がしていることを土台にし、それを強化するか活動の幅を広げること」、これができることではないかと思いました。
取り組んでいることに近いものがあるからといって、現状から離れる方法は上手くいかないと思ったものです。
このことは引きこもっている個人にも言えることではないでしょうか? 「引きこもっていてもしょうがないので、自立をしてほしいんです」という親からの相談を受けます。
親の気持ちとしては当然かもしれませんが、自立のための手がかりをどうつかむか考えるとき、上のことばはこうなるはずです。「子どもがいましていることを評価し、そこからどう伸ばすのか」になります。
そのとき親からは「子どもの現状で認められるものは何もありません。ゲームをしているだけです」という答えを聞くことがよくあります。
そこで「どんなゲームですか? どんなテレビ番組ですか? どんなネットの内容を見ていますか?」と聞いてみます。「知りません・わかりません」という答えが多いです。それはわるいことではないでしょう。
子どもの状態を事細かにわかっていることは、子どもの自立の条件ではありません。
私の子どものことを考えても、十代に20代に何をしていたのかは本当のところは知りません。ただ「自分の道を行け、聞きたいことがあったら聞きに来い」という気分だったように思います。これは一つのパターンでそれがベストとは思いません。
親の思いを優先させて、「この道を通れ、その道に行くのは禁止」パターンがうまくないと思います。反発をしないタイプの子どもがそうされるとやがて引きこもりになるように思います。
「この道」は親の望む道、「その道」は子どもの選びそうな道です。「その道」を禁止されると、子どもは何かを経験し、試してみる機会を失います。親の望む「この道」は自分のなかに動機らしいものがないのです。子ども時代にこういうことが繰り返されていたと思うのです。最近あった相談を思い返して文章にしてみました。

大量生産ではない作品、創作品の特別の役割について

「好きなことを続けて仕事にできる社会的な背景」に次のコメントをいただきました。こうあります。
「何のために生きるか」という問題を抜きにして「生きるために何をするか」しか考えないのは貧しい人生だと思います。
ひきこもりの当事者の一部も、生活費以上に切実と言えるかも知れない目的のために、真剣な態度で趣味に打ち込んでいるのではないでしょうか。
先人の創作活動も、作品に込められた愛着、こだわり、自信、責任感が伝わるからこそ評価されるのであり、たとえアマチュアの作品であっても、それらを尊重する態度がわれわれに要求されることに変わりはないのだろうと思います。

このなかに大量生産方式の工業では実現できない、手づくりとか創作的な活動の根拠があると考えられます。個人的な「愛着、こだわり、自信、責任感」が、一つひとつの生産物にこめられます。だからそれは「生産物」というよりは作品といったほうがぴったりするのです。
もっとも私は社会関係として問題を扱うときはこれを生産物とか小生産と書き表わすことがよくあります。どなたかは明確ではありませんが「小商い」(こあきない)という人がいた記憶があります。芸術のレベルで(あるいは控えめな表現の創作活動では)状況をとらえると、生存のもう一方の基盤をなす生活やそれを支える経済状況を忘れて展開することもあるので注意しているのです。
コメントは「生活費以上に切実と言えるかも知れない目的のために、真剣な態度で趣味に打ち込んでいる」と言われるのはこの点でしょう。そうであるからこそ特別の価値を持つのです。情報社会ではそのことが評価される社会的な基盤ができるのです。
生産物が商品になるときの商品の価値は「それを生産するのに費やした社会的平均的な労働時間である」という労働価値説があります。しかし、芸術作品の価値はこのような尺度では測ることはできません。K.マルクスの『資本論』においてもそのようにされています。
それでは芸術作品や個人的な「愛着、こだわり、自信、責任感」を持つ作品の価値判断の基準が何になるのか。じつは私にはわかりませんが、人間の未来社会の発展的な可能性が潜んでいるように思えるのです。

好きなことを続けて仕事にできる社会的な背景

絵を描くのが好きでLINEのスタンプにあたるものを創っている女性がいます。紙に描いたのですがそこからどうすればいいのか。パソコンに取り込んで色をつけて、しかるべきところに送って、審査をうける。パスをすれば活用される。おおよそこういう順番です。
聞くところによると、審査中のものが大量にあり、審査には数か月の順番待ちとか。
絵を描く人が自分でパソコンを使えるようになる方法と、パソコンを使える人と共同で進める方法の2つがあります。ここから考えたことです。

日本は手芸や工芸をする人の割合がきわめて高い国です。プロとアマチュアの境界がはっきりとしないことも特徴です。言い換えますとアマチュア(趣味の範囲)なのにレベルの高い人が多いのです。販売ルートに乗せる意志と条件がこの違いをつくります(作品のレベルだけではなく)。
19世紀末に日本に来たラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、日本人の使う食器や家具などの生活用品が、西洋における芸術品レベルにあると驚いていました。少なくとも江戸時代にはそういう状態にあったといわなくてはなりません。
この状態はいまも続いています。この状態が情報社会において新しい様相をもちはじめています。
情報社会とは、この小生産(個人的な作品づくり)が独自の販売網をもつ可能性を劇的に高めます。いまはごく少数の人がその条件を享受しているのですが、これからは相当の多数が仲間入りすると推測できます。そうなったとき初めて(人類にとっての工業社会に続く)情報社会が到来したと判断できるでしょう。

私の周辺の引きこもり経験者には手芸や工芸をする人、また独特の狭い世界に深く入り込んで何かをしている人が多くいます。創作活動というと気後れするのですが趣味が高じたものかもしれません。引きこもり経験者にかぎらず日本人には多いのです。
私は不登校情報センターのサイトを趣味の延長として始めたものと理解しています。これは創作活動とはいえませんが、これも「独特の狭い世界に深く入り込んだ」ものです。これらが情報社会では意味をもつようになります。
初めに紹介した絵を描いている女性に話しました。絵を描くこと、一般的にいうと作品づくりを続けることが大事です。それがこれからの社会に生きます。第三の波といわれる情報社会は入り口まで近づいています。しかし、まだ到達はしていません。それで収入を得るとか生活できる条件にはなりませんがもう少しでそういう時代が来ます。
作品には手芸品、工芸品、日用品などです。バイクにつける小道具や、人の条件によっては車の装飾的な部品をつくることもあると思います。大工業も変わるでしょう(大工業の変化する姿を私は描くことはできないのですが)。
パソコンができなくても自分の好きなことをやり続けると、パソコンのできる人が応援にきます。パソコンのできる人に必要なのはそこに載せる情報だからです。手作りの作品は情報になるのです。
年末のセシオネット親の会で話したことです(21日)。