人と話をするのはカウンセリングみたいなもの

2月10日の「精神科の受診を続ける理由(わけ)」と同じ人から聞いたことです。
あえてカウンセラーでなくても、普通の人と話をするのも“カウンセリングみたいなもの”になるといいます。
どんな人との会話でもそうなるというのではありません。近所の好感のもてる八百屋さんとの話はそうはならないと断言していました。
しかし、歯医者に行ったときはそんな感じがしたといいます。そのために歯医者に通っていることもあるとか。この違いがどこにあるのかはよくわかりません。

どういうつもりで精神科に通院を続けているのかといえば「医師が私のこういう状態を少しずつわかるようになるのをお手伝いしている感じです。通院する主な理由というよりも、そういう面もあるのです」からです。それと“カウンセリングみたいなもの”とを重ねてみると何かわかりそうです。私が理解できることのちょっと先にある現象です。

それにこんなこともあります。
自宅にひきこもりほとんど外出しない人が先日から電話をしてくるようになりました。その人は誰とも話をしないでいると孤独感から怖くなるといいます。
また別の人ですが、人とじっくりと話しができた後はすっきり感があり元気が出るといいます。
この対極にいる2人の話しを総合すると、話をするのも“カウンセリングみたいなもの”になるのは本当なんです。どういう人とどういう形での話ができるかによって“カウンセリングみたいなもの”の様相が違ってくるのでしょう。これがさしあたりの結論です。

聴覚だけでなく皮膚からも音情報を集める感受性

引きこもりになる人は相当に感覚が鋭いと感じることは多いです。それにも個人差があり、どの部分がどうというのは一律ではありません。
嗅覚がいい人、味覚がいいと思える人、そして聴覚がいい人というように特徴というかズレがあります。
室内で話しているのですが、外の様子がよくわかるような人がいます。ほんとにわずかな音でも聞こえているのでしょう。
ある人と話しているときのことです。「何かいる」というのです。確かに耳では音は聞こえてはいないのに、何かの気配を感じました。振動を感じるといえばいいのでしょうか。音にすれば非常に低い音になるのでしょうが、通常の人の耳では拾えないようなにぶくて太い響きです。
これは耳ではなく、皮膚感覚または身体感覚でとらえていたように思います。
それ以降は、気をつけていると時たまそういうことがあります。
聴覚とは空気の振動を感覚器官がとらえることです。しかし、人の耳がとらえるのはある範囲の音の波長です。その範囲は人により多少の違いがあり、聴覚の優れている人はこの範囲が広いのでしょうか。しかし、それだけではないとこの時から考え始めました。
耳以外でとらえる空気の振動を皮膚感覚でとらえるとなると、これは皮膚にも聴覚に匹敵する役目があることになります。
ひきこもりの感覚の鋭いというのは皮膚感覚が鋭くて、周囲の音を皮膚からも集めているように思います。
このことを、私は傳田光洋『皮膚感覚と人間のこころ』(新潮選書、2013)を読む前に書いておくべきでした。この本ではそこを解き明かしています。自分も気づいていたというのは出し遅れ感はありますが…。
体毛の消失も同じ本で書かれています。私が「体毛の消失と感情表出の発達」を書いたのは2005年2月です(「五十田猛・論文とエッセイ」に掲載していますから見てください)。