教育機会確保法の状況について

間が空きましたが、「全国若者・ひきこもり協同実践交流会」の実行委員会(11月23日)の続きです。
分科会の準備状況の報告がありました。その分科会の一つ「不登校・フリースクールをめぐる行政と民間の連携」について、古庄健さんが報告しました。
国会で教育機会確保法が成立しました。この交流会に関わる団体・グループのなかには推進派、慎重審議派、断固粉砕派が相混じり、これまでも激論をしてきた法案です。
その状況における方向付けがされたと思います。古庄健さんは各地域においてフリースクール、親の会が地域協議会に参加し、教育機会確保法を地域・現場においてよいものする方向を話せる場にしたいと発言しました。
私はおそらく慎重審議派と断固粉砕派の間にいる者ですが、古庄健さんの提起には賛同します。立派な法律であっても末端地域で国民が動かなければ、形骸化します。不十分であっても地域でそれを超える動きがあれば様相を変えていけると思うからです。
時代背景は野党の共同と統一が主張されるときです。この法律で分裂や対立を持ち込んでいいことはありません。古庄健さんが提起するような団体・グループの地域ごとの協力の推進力にしたいものです。

不登校の親の会で発達障害を語る

27日の不登校・ひきこもりの親の会には、アスペルガー症候群と言われている2人が参加予定と聞きました。いつも何か短いレクチャーをするように言われています。今回はアスペルガー症候群について話すつもりでテキストを準備しました。
アスペルガー症候群の当事者であれば(状態像はいろいろに分かれるにしても)、
具体的で実感のある話がいいと思います。けれども私の経験はすでに多く書きました。経験談はその場の状況に応じて話そうと決めました。
なぜ今の時代にアスペルガー症候群が目立つようになったのか、歴史的社会的な背景に目を向けるのも、当事者にとっては自分理解にとって役立つのではないか、そんな考えが浮かんできます。
それを表わすには前から考えていた進化論と発達障害を結び付けて説明するのがよさそうです。しかしこの考え方というか説明の仕方は、意外なことにこれまで他で見たことがありません。自分なりにはごくオーソドックスな論理なのですが、ちょっと不思議です。
そこで「私論」か「試論」を付けるのがいいのですが、両方を付けるのはもったいぶっている感じがして「試論」を採用しました。
会のなかでは自分が実感したいくつかの場面の話をしました。出席の青年からの話を聞きながら、記憶が薄くなっていた経験も思い出しました。「そうだ! あれが気になっていたんだ」というものもあります。
アスペルガー症候群で「あいまいな表現が苦手・伝わらない」というのがあります。私の方から言えば、「なぜそんな言い方で伝わるのか、もっとはっきりしてほしい」と、思い続けていた子ども時代や青年時代のことを思い出しました。思うにそれで伝わったのはことば以外の周りの人の様子や雰囲気があったのです。そこを感知するのが苦手だったのか、と改めて確信します。しかし、ことばのレベルで伝えるのが正当という思いはいまもあります。
その「発達障害についての試論」は、時間の制約と長さの制限で何か書き残している感じがあります。近く訂正しようと思います。