「アスペルガースペクトラム」のいろいろな状態を聞く中で、感覚に関する偏りの大きさを聞くことがよくあります。その際、「人の感情がわからない」「場面の雰囲気をつかんでいない」などの気づかない、わからないことを指摘されます。
一方、当事者や母親から聞く言葉には、「人の声がうるさすぎる」「味に敏感で食べ物の好き嫌いが多い」「衣類などの肌触りに敏感に反応する」などの、どちらかといえば過敏にわかる傾向をよく聞きます。
私は、「アスペルガースペクトラム」とは感覚が両極に偏りやすいと理解しています。「人の気持ちがよく分かるときと、さっぱりつかめないときが極端になりやすい」「うるさい中でもマイペースでいるかと思えば、直接に話しかけても反応しないこともある」という両方を想定しているわけです。
この両極への偏りには、確かに社会生活に不都合な場合があります。ところが不都合とされていることの中には、社会生活に不都合であるとか、都合がいいというものが固定的なものばかりではありません。不都合とされていることにも、意外と周囲の評価の仕方や本人の気持ちの持ち方で変わってくるものがあります。
この両極端の状態が不都合なのか、都合がいいのかは、社会的環境条件によるのです。ある人には不都合に感じられるものも、別の人には不都合にならないし、その反対もあるのです。
たとえば臭気に敏感な嗅覚を持つ人は、それを生かす職業に就けば大きな成果を期待できます。日常的には本人が困ることがあってもです。
味覚過敏をいわれ食べ物に好き嫌いが多い人は、不都合があっても体に悪いものを口に入れた一瞬で判断できるからです。それを生かせるならばいいこともあるでしょう。
どのように実現するのかは本人と周囲の環境に左右されます。そういうことがだんだんと明確になってきたのが今日の状況でしょう。とはいえ、まだとても理解は狭い範囲に限られています。これが広がれば社会状況も変わってくると思えるほどです。
宮城音弥先生は『性格』(1960年、岩波新書)でこう書いています。
これは感覚の偏りを書いたものではありませんが、精神異常とはどういう偏りなのかを指摘した部分です。
「五種の情意傾向が強まるか、弱まるのが精神異常であるならば、なぜ10種の体質的精神異常が存在しないのか。貪欲性が強まったものが偏執体質であり、偏執病であるならば、なぜ、その弱まったものは病的ではないのか。
…傾向の二つのかたよりのうち、社会生活に不都合なものが病的だと考える。病気とは、個人および集団にとって、有害なものをさすからである」(13ページ)。
この説は体質と精神病との関係を述べたところで、フランスの心理学者の意見を肯定的に紹介したものです。
社会状況の変化がこのような50年前の表現の仕方さえ変えていくように思います。