3月21日付けの2つのブログで不登校および引きこもりの増大に伴う学校の変化の一端を見てきました。それは子どもの変化によるものですが、その延長には若者の変化があります。若者の変化は社会においてどのように表面化するのでしょうか。その一つをみましょう。
内閣府から2010年春に大学、専門学校、高校、中学校を卒業した人の就職状況が発表されました。就職できなかった人と就職後3年以内の退職した人の割合が大学・専門学校で52%、高校で68%(いずれも中退を含む)となっています。就職し現在も勤務するのはその裏返しでそれぞれ48%、32%になります。卒業時点の就職率は推計で、大卒91.8%、専門学校卒87.4%、高校卒93.9%ですから、就職したあとの退職率の高さが目を引きます。
大学と専門学校の卒業生に絞ると、大学院などへの進学者を除くと77.6万人が卒業し、約7割の56.9万人が2010年春に就職しました。このうち19.9万人が3年以内に離職し、卒業後の無職やアルバイトが14万人。その年の中退者6.7万人を加えると、無職と安定した職についていない人が40.6万人、全体の52%になります。高校卒業生や中学卒業生の就職状況のうち無職などが68%、89%とさらに多くなります。
この背景には就職難があり、学生には適性に沿った就職先を選んでいる余裕がなかったことを指摘しなくてはなりません。しかし、私はそれより重大な要素があると考えます。情報社会に入りつつあるのです。3月8日の「引きこもりからの社会参加について(その3)」で私は情報社会をこう書きました。
「確立した情報社会はインターネットの普及だけにはとどまりません。社会関係、人間関係がフラットな関係(上下関係から等質な関係)に移行します。そこでは自己実現の条件が広がるとともに、その条件を提供できない社会や組織は衰退していくものと思われます」。
企業社会が若者の感性(フラットな人間関係ややりたいことを仕事にしたい)を受け入れられなくなっているのです。そのレベルでのミスマッチがすでに起きているのです。
毎日新聞の報道によると、政府はこれにたして学生が自らの適性や就きたい職業についていないとか就職のミスマッチを指摘し、「従来の雇用対策の練り直し」をするといいます。大学の在学中に職場での勤労体験をするインターンシップの推進、大企業志向の就職から採用意欲の強い中小企業への就職先の拡大、正規雇用の少なさ(要因として指摘はするが正規雇用の拡大は図らないらしい!)を考えるだけでは時代の変化をとらえていないのです。
私が政府の対応が時代をとらえていないと考えるのは不登校に対応した学校側の歴史からです。不登校生が増大したのは80年代の中ごろです。不登校の彼ら彼女らは学校への不適応として生まれたのですが、それは基本的には“適応”によっては解消されなかったのです。道ができたのは学校側の変化でした。
学校を変化させる内部からの力は全体として弱く、従来の学校の外側に不登校生を受け入れる各種の学校が生まれました。それがきわめて明瞭になっているのは高校です。
通信制サポート校が80年代の後半から生まれどんどん増えました。次に大検が高卒認定資格になりました。そして昼間定時制高校が生まれました。東京都のチャレンジスクールはその一つです。いずれも学校の内部から変えようとした動きによるものとはいえません。通信制サポート校の広がりの現状は、学習塾など学校以外の場がサポート校化したことです。
このような経過のなかでチャレンジスクールは、なかば役割を終えたように振舞い始めました。この意味することについてはすでに書きました。
企業社会においても同じことが異なる条件のなかで様相を変えて表われています。新卒就職者の早期退職とは、いくつかの複雑な事情かからみあい若者が既存の人間関係と社会ルールの継続する企業を拒否し始めたものなのです。もとよりその一因で退職者・非就職者の全体を説明するわけではありませんが、それを抜きにしては重要な時代的な背景をとらえていないのです。
子どもは時代の変化をいち早く察知し、極端に表現します。80年代なかばに目立ってきた子どもの不登校とは、この社会の大きな変化を無意識にとらえた行動と表現であることがここにきて改めて確認できるのではないかと思うのです。それに続いて若者の企業拒否が現われ始めました。企業社会はこれから徐々に変化を始めていくでしょう。それは情報社会への対応ともいえるのです。
日別アーカイブ: 2012年3月21日
チャレンジスクールが示すもの
考えていた本論に入る前にもう一つ別のことを書きます。高校入試の作文問題が考えさせてくれたことです。
東京都のチャレンジスクールという昼間定時制高校は、不登校生を受けいれるためのものでした。厳密に言うとそうではないというかもしれませんが、あまり強がらないでいただきたいのです。少なくとも不登校生が増えている状況での行政としての対応策であったわけです。
設立の初めから入学希望者は多く、平均競争率2倍以上は当然の状況でした。設立数年してもこの“人気”はつづき、学校としての認知も進みました。ここにきて軌道の微妙な修正を図っていると思えます。なかには不登校対応としての役割は終了に向かうと考えたい人もいるでしょう。あるいはまた私学とのやり取りへの対応策が含まれているかもしれません。私学に行く生徒は残しておく暗黙のサインかもしれません。
チャレンジスクールは不登校対応の高校から離陸を図っていませんか。不登校、あるいは引きこもり的な不登校生や登校がかなわない不登校経験者(!?)は、通信制高校およびサポート校に席を譲ると態度で示しつつあると思います。不登校生に進学先としてのチャレンジスクールは門戸が狭められつつあると言い換えられそうです。
その一方、チャレンジスクールの“人気”は高いままです。不登校経験者に加えて、不登校“親和”生徒がいるからです。私は、「引きこもりを社会参加させようとしていたのに、社会の方が引きこもりに近づいている」と書きましたが、それは中学生や高校生にもすでに現われているのです。この“親和”生徒とはそのような状態の子どもたちです。
ここから引き出されることは何でしょうか。チャレンジスクールに限らず多数の高校がチャレンジスクール模様になることが求められているということです。高校生年齢のかなり多くが不登校的ないしは不登校“親和”的になっているのです。それに対応することが求められているのです。
もちろん多数ある高校が同一色になる必要もないし、現実にそうはなりません。チャレンジスクール模様とはいえそれぞれの特色を持ちます。しかし全体として不登校生および不登校“親和”生徒を受け入れる状況が広まらないとうまく対応できない時代になっていることを示していると思えるのです。
学校は(この場合は高校ですが)不登校生の増大により、このような経路により対応してきたフリースクールの影響、そしてチャレンジスクールの経験を徐々に受け入れていくのです。それはこの時代の子どもたちの状態に(子どものほうではなく)学校のほうが適応しようとしている姿なのです。
しかし、大きな変化はまだ途上にあり、これからも社会の変化に沿った学校の変化は続いていくものと思います。
入学・就職試験に表わす別物の自分
先日は高校入学試験のための作文について書きました(2月18日「教育における『作文』」)。不登校体験者を受け入れるチャレンジスクールに入学するために「かつては不登校でしたが、いまは立ち直っています、大丈夫です」という内容の作文を求められ、またそれに“作戦”としてのる生徒の様子を知りました。
先日は、大学生が就職試験の臨むにあたっての履歴書を見せていただきました。大学時代の様子と、自分にできることを精一杯の“作戦”で現わし入社試験の合格をめざしているのです。
両方に通じることは、現実の自分と提出物に書いた自分がだんだん離れていくことです。学生の言葉によると、就職活動で失敗しないためです。その不安から現実の自分とは別物の自分を履歴書で表現しているのです。
受け取って読むほうは、たぶんそれが現実とは違う就職試験用のものであるとわかるでしょう。ですが(はなはな表現が悪いかもしれませんが)担当者としては弁解材料ができたのではないでしょうか。担当者は作文能力の試験をしているのではなく、必要な人材を募集しているです。多くの募集担当者にはその眼力があると期待しておきましょう。
このようは自分とは別物の自分を社会的背景の中で表現しなくてはならない事態が、特に若い世代の中である意味では組織的に広げられていることに気づかなくてはなりません。社会の虚構化が進んでいるといえるのです。
日本人は原子力発電の推進において“安全神話”がつくられていたこと、その虚構にびっくりしているはずなのです。ですがその傍らでは別の虚構が新たに生まれ、肥大化しているのです。少なくともその現場にいる人は気づいています。それがどれだけ大きな意味を持つのかはどうやら気づかないでいるように思えます。
先日、その一つの結果が内閣府(当初、総務省としたのは間違いです)から出されたようです。
それは項を改めてみることにします。