救急患者を持ち運んだ記憶

真夜中に救急車のサイレンの音がします。
寝ていたので時間はよくわかりませんが、明け方近かったかもしれません。
近くに救急病院があるのでときどき救急車はサイレンは耳にするけれども、それで目が覚めるということはほとんどない。
眠りは深いのです。
この日はなぜか若い時分に働いていた病院でのことが浮かび、眠れずにいました。
それを話しましょう。

救急医療の体制がいまほどできていない時代でした。大学病院なのでよく救急患者が運ばれてきます。
夜間の救急医療体制も不十分ながらありました。
医師は当番らしく夜食べに行く小さな居酒屋でときどき担当医と顔を合わせました。
当番医も救急医療室に常駐ではなく、こうして近くに食事にでかけたり、仮眠室で休んでいたようです。
救急患者が運び込まれると、救急室担当の看護婦から連絡がいく。そういう体制だったと思います。
私は事務当直でしたが、これらの仕組みの説明を受けたことはありません。
だからこれらは正確ではないかもしれず、現場の経験によります。
事務当直の順番が回って来て2人でその日はベッドのある事務室にいます。
簡易な部屋なので女性事務員は担当することはなく、主に独身者が担当しました。
というよりも事務員はほとんどが若い独身者でした。そこも意図的にそうしていたのか不思議に思えます。
守衛、薬局、検査室、放射線室にも当番があったはずですが、全体のことはよく知らされていません。
これらの職種の人には家庭持ちの人がいたので、当直室はあったはずです。
このあたりが救急医療制度が未確立、整備途上と思えるのです。
1回も説明を受けることなく事務当直に就いたことが解せない。
ただ当時はこれを疑問に持ったことはありません。
医師などの専門職の体制が優先され、守衛は元々24時間体制。
対して事務当直は付けたりで若い独身者任せだったのか?

患者として多いのは乳幼児の「熱性けいれん」と記憶しています。
しかし、ときたま大変というのもありました。
いや乳幼児の「熱性けいれん」だって、親にとってみれば一大事に変わりはありませんが…。
思い出したというか、忘れられない救急患者のことです。
夜の12時前の時間だったと思う。救急車ではなくてタクシーが玄関先に止まりました。
当たり前ですが救急のサイレンは鳴っていません。予告なしです。
守衛室と事務受付が玄関近くにあり、タクシーの運転手が飛び込んできました。
「患者さん運んでます。事故です!」というようなことを言ったんだと思う。
慌ててタクシーのもとに行くと、守衛も飛び出してきていた。
タクシーのドアを開け(当時は手動でドアを開け閉めをしていた)、運転手と2人で車から引き出します。
下向きの体を抱えるとき両手に何か冷たいものに濡れる感覚がありました。
看護婦が車付きの担架を横につけているのに気づきます。その上に患者さんを載せます。
男性でしたが老人でも若い人でもなかったと思う。
救急室まで運んだとき医師が急いでやってきました。
手に広く血がついていたのに気づいたのはそのときです。
交通事故があり、救急車を待たずにタクシーに乗せてきたのです。
事務室に戻ってしばらくしたら看護婦が来ました。
「すでに死んでいました」と言ったように思う。
警察なんかにも連絡をしたはずだが…。先輩事務員がやってくれたのか、守衛がしたのか…。
普通は救急車で運ばれてくるので、そういうことは救急車から連絡がされます。
こういう場合にどうするのかも知らされてはいません。
50年ほど前の話になります。世の中それでも少しずつ整備されてきたと思います。

Children Joy Foundation(?)に募金で500円

私はこういうのに弱い。
新小岩駅の東北広場から改札に向かう途中で募金をしているのに出会った。夜の9時半は過ぎている。
Children Joy Foundationの名前で募金活動をしている人がいる。
東南アジアの子どもたちを支援する募金だという。
小さな手帳に4、5名が名前を書き、募金をしていた。
ちょっと怪しいのだけれども、この機会を外したらそれっきりだと思うし、だまされてもいいという気持ちでポケットを探って小銭を集めた。
百円玉が5個あったので、それを渡し、サインをした。
帰ってネットで調べたら、まったく同じのが横浜で募金活動している様子が出ていた。
それによるとChildren Joy FoundationというNPOはないらしい。
100%嘘と断じるほどの証拠はないが…。
子どもが絡んだこういうのには弱いです、ハイ。
横浜の記事を見てください。
Children Joy Foundationで検索すると出てきます。
http://hamarepo.com/story.php?story_id=5369

地方議会の議員と意見交換しました

ある地方議会議員と話しました。
テーマはひきこもりへの対応ですが、いろいろな面に及びました。
私からは「人手の欲しい事業者と一緒にひきこもり・家族との交流の機会をつくる方法」を話しました。
関心を寄せる事業者がいましたらと、「事業所の紹介用紙」を渡しました。
議員の方からは「空き家対策」について考えていることを話していただきました。
その自治体は、外からの目視で「空き家」を確認しているといいます。
正確なことはわからないまでもある程度の様子や変化はつかんでいるようです。
この空き家を福祉の問題としてどう有効活用するかを取り上げていくようです。
それをひきこもりと結びつける可能性を見ているのです。
確かに住宅問題は重要になります。
他にも参考になることがあり、ときどき意見交換することになりました。

広島原爆の日に振り返って思うこと

8月6日、広島に原爆が投下されたのは1945年です。
その前日の1945年8月5日は私の誕生日です。
生まれたのは朝鮮慶尚北道の慶山、現在は大邱市に含まれています。
父は朝鮮鉄道の鉄道員でした。
毎年、誕生日が近づくころに「広島原爆〇周年」と言われ、その〇は私の年齢と同じです。
このたびは72周年ですが、いつもとは違った出来事があります。
国連で「核兵器禁止条約」が採択されました。核兵器そのものが犯罪と決められたと理解しています。
核兵器を作ること、持つこと、運ぶこと、持っていると脅かすこと…これらがすべて犯罪であるという法律が、国連で採択されました。
これには日本のヒバクシャの取り組みが大きくかかわっています。

島根県にいた高校2年の夏休み(1962年)、広島市内に住む親戚の元に1週間ほど行きました。
その間に原爆式典の日もありました。関心は少なく市内のテレビニュースで見た記憶があります。
大学に入ったあと(1965、6年ごろ)、何かの折に被爆者の体験を聞く機会がありました。
それから「広島原爆〇周年」を目にすると、誕生日が近いと意識するようになっています。
1972年、東京で開かれた原水爆禁止世界大会に参加しました。
全体集会は屋外の広いスタジアムで、そこでモザンビクから来た代表がスピーチをしていました。
その翌日1つの分科会の参加したときです。
そのスピーチをしていたモザンビクの独立運動をする解放戦線のA.Pangueneさんに会いました。
通訳なしながら大会関係の随員に助けられて、30分近くも意見交換(?)ができました。
彼が隣国のタンザニアに戻った後も、しばらくは手紙でやりとりしました。
それもいつか途切れました。しかし数年間はモザンビクに関係するいろいろな文献を読み漁りました。
私がいちばん英文を読んでいた時代です。いちばん勉強した時代でもあります。
当時のノートはいまも段ボール箱に収まっています。
私が1974年に大阪から東京に移動したのはこれに関係します。
その彼が日本にやってきた2013年に会うことができました。
彼は日本に来るとき、私と一緒に撮った写真を見ながら、奥さんがこの人と出会えたらいいねと言っていたそうです。
偶然に近場の亀戸で集会があるとわかり、その日の予定を変えて私は彼と一緒に撮った写真をもってその場に出かけました。
そして40年を隔てて打ち合わせなしで再開できました。
1975年6月25日、モザンビクは独立しました。
独立の解放闘争を初めて11年目です。
しかし、独立後の闘いの方がむしろ複雑で困難も多かったように思います。

核兵器とモザンビクは私の中ではこれまでつながってきたのです。
きょう8月6日は広島原爆の日です。ひきこもり関係のある集会に行きます。
他にもモザンビクとはつながらない広島原爆の話もあります。
むしろひきこもりとつながるのですが、その話はまだできません。
広島原爆とモザンビク、不思議なめぐりあわせを感じさせます。
昨日の誕生日、お祝いいただきありがとうございます。
すっかい疲れていまして先ほど見たところです。

老舗(しにせ)の和菓子屋さんの閉店

最寄りの平井駅の南側に商店街が伸びています。
駅相応の規模でそう大きくはありません。
その中ごろに「林家」さんという和菓子店があります。
特色というか、目立つのはその店の切り盛り役のおばあちゃんです。
クリスチャンのようです。控え目なようでいて愛想よく静かに笑顔を振りまいています。
店先に流れる曲はいつも小学校唱歌(?)でした。
ある意味何の変哲もない和菓子店が閉店しました。
閉店の事情を書いた張り紙があり店主の病気と高齢のためとありました。
店が83年も続いた長さがこの町になじんでいた理由を教えてくれるようです。
林家さんの閉店はこの商店街にとっては大ニュースかもしれません。
閉店は7月末になり既に4日目です。
通りがかりの人が閉じられたシャッターの張り紙に近づいて読んでいます。
私も思わずそれにならってしまいました。

ある信用金庫にも行きました―住宅更新するときの方法と公的な制度を調べる(5)

ある信用金庫にも行きました。
生活困窮者支援窓口から「年金担保融資」の案内を受けていたからです。
一般の相談窓口はなく「カードローン」と書かれたところに行きました。
説明し出すと、窓口の若手の人はベテランらしい担当者を呼んできました。
私は年金収入がありますが、この銀行に受け取り口座を持っているわけではありません。
「大手の市中銀行よりも地方銀行や信用金庫などが丁寧かもしれない」と聞いたのでこの信用金庫に来たのです。
この信用金庫の場合は、年金は担保扱いではないといいます。
ただ年金の振込先を含む口座開設は必要になるといいます。
似たようなものでしょうが、厳密には違いますからうなずくしかありません。

ここの相談で教えていただいた興味を引くことは別のものです。
昨今の不動産の状態、空き室状況などです。
空き室にしておくより家賃の値下げをするところもある、更新料や敷金を下げたり「なし」にしているというのです。
この信用金庫がどこまで絡んでいるのかは明らかではありません。
それでも実務に関わって得ている社会情報といえると思います。
この信用金庫の貸出は年利9%といいます。
カードローンよりは安いとはいえ、敬遠するしかありません。
カードローンは14~15%(?)、消費者金融は19%(?)なのでそこまでにはなりませんが。

江戸川区社会福祉協議会―住宅更新するときの方法と公的な制度を調べる(4)

相談窓口の人は30代ぐらいだと思います。
やや早口で話すので内容を理解するのが間に合わない感じです。
この方の相談対応例が少ないのではないかと感じましたが、違うかもしれません。
この貸付制度は「生活福祉資金貸付制度」といいます。
東京都の施策によるもので、東京都社会福祉協議会と都下の市区町村社会福祉協議会が窓口になっています。
貸し付けの対象は世帯単位であり、福祉資金(年利1.5%)と教育支援資金(無利子)です。
福祉資金は最大250万円、返済8年になります。
福祉資金には、障害者向けに限らず、技能習得、就職、自営業に必要な経費も含んでいます。
利用目的が明確であることが条件になります。
借り受けるまでの準備期間が長く(申し込みから1月以上)、申し込み以前に民生委員の面接もあります。
世帯単位での生活の自立を図るために地域の中での関係をつくっていく面があると思いました。
これは利用しづらいと思い「貸し付け実績はあるのですか」と聞くと「あります」ときっぱり。
それは教育支援資金の方ではないかと…疑い深いでしょうかね。私の不十分な理解かもしれません。
しかし、民生委員が関わるところなどは社会福祉協議会らしさがあるかもしれません。
借主は収入がある世帯主になります。
「収入がある」も「世帯主」も、意外と借りづらさになるかもしれません。
生活の自立を確実に図ることを目的とした貸し出し制度、とも考えられます。

江戸川区小松川事務所庶務係―住宅更新するときの方法と公的な制度を調べる(3)

江戸川区が生活一時金を貸し出す制度の窓口です。
江戸川区には区役所を含めて6か所(庶務係)の受付窓口があります。
相談の窓口は最初は「研修」のプレートを付けた人、やや遅れて(たぶん別の相談をしていた)来たもう一人、2人です。
いずれも30代と思える若い人です。
背景事情を簡単に話して、生活一時金の貸し出し内容を聞きました。

貸出金額上限は一般30万円、特認50万円です。
特認というのは医療費、入学・入園、災害、結婚、葬祭、区内転居、契約更新です。
私の場合の契約更新も特認です。
契約更新の場合には、提出書類に「仲介不動産屋又は家主発行の請求書か見積書」とあります。
他の特認の場合もそれぞれの請求額や明細書などが要ります。
利用の条件は以前よりも厳しくなっているといいます。
返済ができない人が増えてきたといいますが、生活条件が以前よりも厳しくなっているからでしょう。
その時期に貸し出し条件を厳しくするというのは施策としてどうなんでしょう…か。
こういう貸し出しを制約すると、めぐりめぐって行政経費の支出は増大します。
これはいろいろな社会実験で少しずつ明らかになりつつあるのですが、まだ一般認識にはなっていません。
今回の相談窓口の人には漠然としかわからないし、そこまで要望するものでもありません。
行政のトップレベルの人たちに理解してほしいことです。

この制度利用のネックになっているのが連帯保証人です。条件があって、世帯主であること(住民票で確認)、課税証明書(非課税者は該当しない)とあります。
同居人は資格なしです。基本的に現役の働く世代が想定されています。
私のような高年齢になるとこの現役の働く世代の知人が少なく保証人がみつからないこともあるようです。
高齢者には使いづらい制度になっているかもしれません。
私はすでに公共の貸出制度利用者の保証人になり、返済の遅れている人もいます。
このような保証人の一端は体験しています。
たぶん民間機関の貸し出しとはかなり違うと思うのですが、どうででしょう。
このような貸出制度はいろいろな自治体にあると思っていました。
調べてみないとわかりませんが、「どこにでもあるとは限らない、むしろ少ないかも」という意見も聞きました。

江戸川区生活困窮者自立支援窓口―住宅更新するときの方法と公的な制度を調べる(2)

江戸川区生活困窮者自立支援窓口
―住宅更新するときの方法と公的な制度を調べる(2)

朝一番のつもりで窓口に就いたのは8時50分、すでに先客が1名いました。
「くらしごと相談室」といい、ひきこもりにも対応するセクションになっています。
以前に一度活動内容を聞くために来たことがあります。その記録は残されていました。

相談申込用紙があり、相談内容を書くようになっています。
(1)生活保護、(2)都バス優良券(だったと思います?)、(3)その他(    )
と3項目が例示されています。
申込用紙のその他の(   )内に、賃貸家屋の契約更新、と書きました(そんなニュアンスのこと)。
相談担当の方はベテランのように見えました。
少し話したところで、「生活保護よりも貸付金の方がいいかもしれませんね」といわれ、担当者が交代しました。
2人目はもう少し若い、たぶん30代の後半以上の方です。少し時間をおいてきました。
初めのベテランの方に詳しく話したので、交代してきた人にどの程度を話すべきか迷いました。
確認されたのは、、
(1)更新に必要な金額と借入希望額
(2)現在の収入金額
その結果、公的な制度としては貸付金以外にはなさそう、それがよさそうと見て、いくつかの制度と受付先を教えてくれました。
貸付金に絞られたのは、①生活保護に該当しないこと、
②相談者が収入を得る方法(それはほぼ仕事に就くこと)に向かう対応に該当しないこと、
③それ以外の方法が用意されていないためであると思います。
③の「それ以外の方法」とは、例えば空き家利用です。
これはまだ施策としては手が届いていないようです。
空き家利用以外にも対応策はあるかもしれませんが…今はわかりません。

生活困窮者自立支援窓口は、2年前の生活困窮者自立支援法により全ての市区町村に設置されました。
江戸川区では「くらしごと相談室」の名称がついています。
設置2年ですが、担当者は別セクションで同様の対応を重ねてきた人たちのようです。
ただ「ひきこもり」の対応については新分野であると思います。
私事を通して周辺のいろんな様子を知りたいと話すと意味を察知してくれました。
前に来た内容記録を見たのかもしれません。
自立支援を標ぼうする窓口ですが、相談と手続き以外に「くらしごと相談室」所内で何かの対人サービス的な取り組みをしているようには見えません。
それで案内をされた相談機関(窓口など)を回ることにしました。
こういう制度ができたことは前進だと判断できます。
この生活困窮者自立制度・法律ができた後の2014年ごろには半信半疑のところがありました。
ただ以前から生活保護制度の前に何らかの中間の仕組みが必要であるとは考えていました。
ところがある市の生活困窮者自立制度の窓口担当者になった人からこうききました。
「生活保護を受ける人を増やさないための制度」です。これで警戒感が出たことは確かです。
いまは前進だとは判断していますが、もちろんこれで十分とは思いません。
どうするのかはどう生かすのかにかかっています。

住宅更新するときの方法と公的な制度を調べる(1)

今年の3月にある団体のサイトへの広告掲載が終わりました。
それによる収入源ですぐに活動停止になるのではありません。
しかし「収入減に見合う活動状態に向かう」決断する時期を感じました。 
この広告掲載は、不登校情報センターのサイト運営の初期からおかれた象徴的なものです。
同時にこの数年の広告等には似た動きがあり、1つの時代傾向を感じたのです。
ちょうど7月末に事務所の更新時期が来ており、このタイミングでそれを実現しようと考えました。
すなわちいまより狭くても最低限の活動が可能な、より安い事務所に移転することです。
しかし、4か月の期間には適当な物件ば見つかりません。
6月末には現事務所を継続(更新)し、できるだけ早期にめざす物件を探し、移転することにしました。
この時期に移転できないのは残念なことです。
ただある人には「お金はある」と映ったようです。
いよいよ7月末が迫る中で継続(更新)する費用がたりません。
ここで、私は発想を転換しました。
私個人の問題ではなく、お金がない者の住宅問題の対応のしかたを調べようと考えました。
自分自身の問題を材料に、社会は、特に公共部門はどう対応できるのかの実地調査です。
あくまでも個人のケースに即していますので、その限界は承知してください。
次の個所に行きました。
(1)江戸川区生活困窮者支援窓口
(2)江戸川区小松川事務所
(3)江戸川区社会福祉協議会
(4)金融機関
(5)不動産会社

5か所を回り、事情説明と可能な対応方法を聞きました。
こちら側はなるべく詳しく背景事情を話しました。
対応する側に事情がわかり、理解されやすいと思ったからです。 
それらを1つずつ報告します。
さらに別のところに回るかもしれません。
ひきこもり状態の人だけではなく、現在または将来の住宅問題等を考える参考にしていただける…でしょうか。