アンケートは失礼という人もいましたが…

数日前に電話がありました。「人の事情を知らないで、アンケートと言ってひきこもり呼ばわりは失礼ではないか」という主旨でした。怒っていましたし、「すみません。配慮がたりませんでした」と謝りました。

アンケートは合計500通以上ですが数回に分けて送りました。分けたのは作業量が多いのと送料合計55000円を一回で用意できなかったためです。12月15日に最後の100通余を送ったところで、抗議電話は12月10日ですのでその前の投函分です。

今回のアンケートはいろいろ不備がありました。1回目送付の後、内容の不十分さを強く感じて[改訂] 版を作り直し、初回送付した人にも送り直しました。アンケートの名称は初回は「アンケート(回答者名不要)」でしたが、[改訂]では「長期ひきこもり経験者へのアンケート(無記名)」としました。この変更もしなかった方がよかったのです。気持ちを損じた人はこれに関係するかもしれません。4~5回に分けて送付したことも含めて、私一人で実施するアンケートの不十分さが出たのです。

以上の不十分さや礼を失することになった点もありますが、12月15日には最後の100通余を送りました。40代・50代以上になったひきこもり経験者の現在の困難を知るため、連絡がとぎれているので「事情を知るため」の目標があったことが理由です。これまで受けとったアンケート回答にはその答えがあると確信できます。まだ回答はつづいてくると思いますので全体を示すのは来年になりそうです。ここでは〔自由記述欄〕にある3例を示します。

1つは、現在は社会参加されている方からのものです。「40歳で結婚したので子育てと親の介護が重なってしまって、もっと早く結婚できていればと思います。ひきこもりの時間は当時は知識と経験がなくそうせざるを得ませんでしたが、50歳近くなって振り返ると貴重な時間を無駄にしてしまったと思います」。

もう1つは、事情に変化はないと伝える父親からのものです。「ひきこもりも20年を越え、親も80才手前となり、この先どうなるか不安ですが、本人は以前より家のこと(食器の片づけ、ゴミ出し、洗濯物干し、片づけなど)をやってくれている。親が元気なうちに先が見えればと思いますが、本人次第なので、見守ることしか出来ないのが、はがゆいです」。

こういう人もいます。「今まで完全に長期ひきこもりをしたことは経験上ありません。現在はX市にあるB型作業場に週3回通所しています。20数年あまり不登校情報センターに関わり続けています。ひきこもりではなく普通の社会を回避しがちな性格であり、中年間近かな年齢になった今も普通の社会人として生きる自信がなく、日頃より幻想しながら、日々自分らしくありたいと思う気持ちは強く日常暮らしています」。

抗議電話をしてくれた人からその日のうちに落ち着いた二度目の電話がありました。「忘れないでその後の事情に気をかけてくれて感謝している人もいる」と告げると、少し納得してくれたと感じました。

アンケートの回答が何通になるのかは予測できません。アンケート以外で電話により詳しい事情を話してくれた方もいます。アンケート回答はなくて会って話した人もいます。無記名を前提にしますが、記名の人もいます。切手不要としていましたが、切手をはって送ってくれた人もいますし、資金カンパをしてくれた人もいます。不十分な点はあるけれども必要な意義はあると思い、初めに予定した500通を送付したのです。回答を待っています。

複雑性PTSDの記事を紹介します

ある人に会いに行ったところ古い新聞記事を見せてくれました。見ると「複雑性PTSD」の見出しがあります。当人の経験に思い当たるところがあるので持っているのです。今回のアンケート回答の1人の症状に「複雑性PTSD」という答えがあり、しかし「説明することがおっくう」と書いていました。類似の状態を持つ人もいるかもしれませんので、この新聞記事(朝日新聞2023年8月)を紹介します。

複雑性PTSD 治療の焦点は:うつなど精神的な不調が治療を続けても改善しないケースでは、過去のつらい体験による心の傷(トラウマ)が背景に潜んでいることがある。幼い頃に受けた虐待などが原因で、大人になってから感情の制御や対人関係がうまくいかず、社会生活に支障が出る「複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)」に該当する可能性がある。この病気に焦点を当てた治療法の開発が進められている。

《埼玉県の女性(39)は10年ほど前、職場の人間関係がきっかけで会社に足を運べなくなった。上司に怒鳴られ心が折れた。うつ病と診断されて休職。薬を飲み、回復した。しかし、数年後に再び不調になった。気持ちが張り詰めて眠れず、四六時中いらついた。頭の中はネガティブな感情であふれた。その上、子どものころ、毎日のように親に怒鳴られた嫌な記憶が、わき出してくるようになった。真っ暗な玄関に閉じ込められたり、真冬に家から閉め出されたりもした。絶望の中で耐えていた日々がまざまざとよみがえってきた。

わき出す記憶を自分では止められず、家の中の物に当たり散らした。皿を割り、壁を殴り……。「さすがに異常だ」と思い、改めて精神科を受診した。医師からは「PTSDだと思います」と告げられた。医師によると、子どもの頃のつらい体験が今の不調に影響しているのではないかということだった」。》

複雑性PTSDは2018年にWHOで採用した診断名のようです。私の知る範囲でも、これに似た心理状態、後遺症状みたいな人にも参考になると思います。以前に複雑性PTSDの診断を受けたという人もいます。今回のアンケートは無記名なので同一人かは分かりませんが、この記事全文を送ります。

複雑性PTSDの治療方法として「持続エクスポージャー(PE)療法」が医療保険の対象となっています。また「ステア・ナラティブセラピー」という治療方法もあります。「ステア・ナラティブセラピーを最後まで終了できた7人全員が3か月後に症状が改善し、診断基準を満たさなくなった」という記事内容です。

このような治療方法を実施している医療・カウンセラーはおそらくあまりないでしょう。それに新聞記事を読んで納得したところで何かがよくなるわけではありません。親しく話せる人がいることで、(保障はできませんが)少しは改善できることもあると思います。一方的に自分の悩み苦しみを相手に聞いてもらう(聞かせる)関係ではなく、ときにはよかったことも織り込んで互いに話し合える関係になればいいのですが…。

〔追記:12月17日〕乳幼児期にマルトリートメント(不適切な養育)を受けた人に生じる愛着障害とこの複雑性PTSDは要因も状態像もかなり似ている、ほとんど同じではないかと思うほどです。それはどう違うのか? 2018年のWHOの診断基準とは何か。調べてみたくなっています。

ACTを求めるIchさんのばあい

彼とは10年ぐらい顔を会わせていません(Ichさんとします)。駅改札口で待ち合わせをし、お互いすぐにわかりました。近くのファストフードで1時間余り話しました。

元気そうに見え、仕事は人手不足もあって残業が多く週5日1日9時間ぐらいと聞きました。知る範囲では最長時間レベルです。外回りが多い仕事で20年以上は非正規職員として働いています。不安症状があり、確かめると障害者枠の雇用であり、服薬も続けています。元気にみえたし労働条件で特別の差別的待遇はなさそうなので私から確かめるまでは障害者枠の雇用を自分からは話しませんでした。父母は10年前の相次いで亡くなり、姉一人が家族ですが長期入院中です。Ichさんも姉も50代です。週1回ぐらいで姉に面会に行っています。姉の元彼とはいい関係といいます。

今後をきくと、あまり明確ではありません。ACT(重度精神障害者に対する1日24時間体制の訪問医療)の普及が彼のアンケート回答にありました。姉が退院できる条件を考えているのです。姉は服薬効果が低い「治療抵抗性の統合失調症」であり、他にも手術経験をした内臓系の疾患があります。

ACTをネット上で調べると、地方のある医療機関のHPにこうありました。「ACT(Assertive Community Treatment):積極的地域医療や包括的地域生活のプログラム。重い精神障害を抱えた人が住みなれた場所で安心して暮らしていけるようなさまざまな職種からなる医療チームにより提供される支援プログラム」。国立精神・神経医療研究センター(千葉県市川市)が近隣自治体で実施しているとのことです。ACTが全国的に展開されている状況はありません。基本的には入院対応になっているのでしょう。医療機関が想定している取り組みであり、私の知る範囲では患者団体(当事者側)での提起も知りません。

今の状態は入院対応しかできないので、退院して対応できる条件づくりの運動になりそうです。医療機関側も大変でしょうし、患者(国民)の健康対応策としてできる部分的なところから手をつけることになりそうです。「どういう社会にするのか」というテーマにつながります。Ichさんの住所、姉の入院先も東京都内ですから、東京都に対して何らかの形にして要望を提出する、患者団体/障害者支援団体に訴える。この辺からになると考えました。

自治体(保健所、社協など)職員と顔見知りになる

本人50代、父母80代の3人家族。うつ状態と対人不安を感じる神経症があり、週2日の短時間就労。アンケートを持って来て話をきくことになりました。将来の不安、とくに親亡き後は深く考える気がしないといいます。状況を改めて聞きましたが、ここではアドバイスなるものは苦手な私が話したことを書きます。簡単に言えば自治体の担当者と顔見知りの関係になることです。

(1)自治体広報を見てイベントの参加する。=講演会がある、ひきこもりに関係する人の集まりがある…自分とはあまりつながりがないと思える種類のイベントであっても、体調などをみながら可能なときは参加、出席します。これらの主催はだいたいが保健所(江戸川区を例にすると健康サポートセンターのような名称)、社会福祉協議会(社協)、それに住民の自主団体でありますが、自治体の福祉部が関わっていることが多い。

(2)自分がどういう課題に直面しているのかを話す。=上のイベントに参加していくと、自分はどんな課題(困難、問題)に直面しているのかが自分でわかります。講演会で話す人は「この人は話しやすそう」という印象を持てる人もいるかもしれませんが、いきなり近づきの関係にはなれません。自治体等の関係職員は相談窓口にいる人や保健師、生活指導員などもいます。そういう行けば会える人に相談をもちかけます。これらの人は直接に問題(困難)を解消する人たちとは限りません。それは期待しすぎです。①話しながら自分で自分の持つ問題をより明確にする。②職員に自分が持っている問題を知ってもらうこと。——区民・市民がどういう困難をもっているのかを自治体職員に知ってもらうことです。

(3)職員の対応はいろいろです。自治体(及び国)の制度としてできていることを話される人が多いでしょう。それが役立つことはあります。しかし多くはそういう問題ではありません。国や自治体で設けられている制度は、自分には十分でないことが多いものです。身体症状などの解決策ではなく、周囲の補助的な役割とするものが中心です。そういうものとして聞くのです。

(4)これらを通して、何ができているのかと言えば、関係の職員(一人だけではなく、ときには異なる部門の数人)と顔見知りになることです。「あの人は、~でよく顔を見かける人(ときには名前も覚えられる)」関係になることです。自治体職員以外の関係分野で動いている人との関係ができることもあります。直接に身体症状・生活条件の改善に結びつくことはあまりないかもしれません。それでも自分の周囲の人たちとの関係はできていきます。これらの人全部が自分に好意的とは思いません。人間とはそういうものです。しかし特別に妨害者とか悪人がいるわけではありません。

(5)何が得られているのかの第二の面は、将来に少しの安全を感じられるようになることでしょう。これで完全というものはありません。友人・知人はうまくできなくても、自治体は(配置転換はあっても)職員はいます。そういう関係があれば、話せる相手になるでしょう。生活環境の少しの改善です。

公共交通もエッセンシャルワーク

人間が生活するのに欠かせないエッセンシャルワークには、直接に人に関与する対人ケアが重要な位置をしめます。この部分は家庭内ケアの部分が大きな割合を占め、社会の発展とともに家族・家庭の外側にそれを支える仕組みができ上がってきました。保育・医療・介護がそういう分野です。

対人ケアワーク以外のエッセンシャルワークとして明確なのが交通、とくに公共交通です。人間の歴史のなかでそれが明確になったのは近代に入ってからです。機械的交通手段、現代では電車、自動車と鉄道、道路によるネットワークでしょう。それ以前には、馬車や人力車がありましたが、公共性はそれほど高くはなかったでしょう。

猪木武徳さんの『戦後世界経済史』のなかに、公共交通について日本の例が紹介されています。ヨーロッパ諸国の鉄道事業が苦闘しているなかで、日本では2つの事業がそれをつき抜ける成果を挙げたからです。

1つは新幹線です。東京—大阪間に新幹線が開通したのは東京オリンピックの開催された1964年10月です。新幹線の開通により日本国内の輸送サービスへの需要の高さがさらに明らかになっただけでなく、諸外国(フランス、英国、西ドイツ、イタリア、米国など)が高速鉄道の開発を企画する契機にもなりました。日本の新幹線は、高速、フェールセーフという特色以外に、広軌(標準軌道)、変電の集中制御、雪対策、信号装置の作動を先行列車との車間距離によってコントロールするなど、多くの新技術を集大成したものでした。

しかし、日本の国鉄の経営も70年代末には壊滅的状況に陥っていた。25兆円を超える負債、年々の収入の4割近くがその負債利子の支払いに向けられ、42万の職員の人件費が収入の7割弱を占めていた。それでも毎年1兆円の設備投資が行われ、民間企業では考えられない非合理的な経営が行われていたからです(p292)。

ここで1987年の国鉄民営化です。「日本政府の臨時行政調査会は、1982年に国鉄の分割民営の方針を打ち出し、1987年4月に民営化が実現した。分割の境界の決定、組織と人事制度の改変、財産の再配分、規程の変更など、多くの困難な作業を伴ったこの民営化事業は、結局23万人の人員削減という苦痛とともに、ようやく11年間で1兆5000億円の負債を減らし、黒字経営に転換できるところにこぎつけた」(p293)。

この結果を1988年9月フランスの国鉄国際局長の談話が引用されています。「日本の鉄道は世界の鉄道に2つの大変大きな貢献をしてくれた。それは新幹線と国鉄の民営化だ。日本の新幹線の成功は世界の鉄道の旅客列車を滅亡から救った。日本国鉄の民営化は大変な試みだ。フランス国鉄はいまのところ同じ道を歩むつもりはない。しかし、少なくとも鉄道事業が採算のとれる事業になり得ることを実例として示してくれた」(p293)。

私が18歳のとき新幹線が開通し、大学夜間経済学部の同級生Yさんが国鉄労働組合の下部役員を務めていることもあり、民営化に反対する労働組合の応援に行ったこともあります。今では公平に見て、新幹線事業は肯定的に評価できます。民営化については不明の部分はありますが、必ずしも否定的とはいえない気持ちです。

さて問題として考えているのは公共交通です。全体としてはどうでしょうか。北海道をはじめ“地方”といわれる各地で、JR(旧国鉄)の鉄道支線などは廃線が続いています。それを部分的に防ぐために自治体のいくつかが第三セクターを作って、地方線の維持を図っています。小規模な私鉄では鉄道事業以外の多角経営で鉄道の存続を続けています。バス路線への転換で住民の生活への打撃を少なくしようとする努力もあります。

この公共交通の衰退は、地方の人口減の直接の影響でもありますから、公共交通の面だけでは全体像を語ることはできないでしょう。公共交通は人口の多い都市域でも課題が生まれています。人口の高齢化と身近な商店街の縮小によるものです。ここでも自治体の動きとそれをバックアップすべき中央政府の役割があります。

私の住む隣接の墨田区では区営の区内巡回バスが運営されています。買い物“難民”、医療機関巡り、高年齢者増大…への対応策と言えるでしょう。公共交通はこれらの全体をみて考えたいのです。

低開発国でのGDP優先の工業化は国内を不安定にする

私が子ども時代をすごしたのは漁業集落でした。小学生のとき数人と浜辺に一緒にいたところ、近所のおばさんから呼ばれて一軒の家に入りました。「カマボコが出来たから食べてみて」ということです。魚肉の質が残る舌ざわりがするものです。現在の町中のスーパーマーケットで売られている肉質が均一で、品物の外側が薄いピンクで化粧されているカマボコとは全然違います。素朴で商品としては完成度の低いカマボコです。味は表現できませんが、うまかったことは確かです。

漁獲物(魚)という第一次産業の生産物を、加工業(第二次産業)に移すその現場、まさに家内工業です。ここがその後どうなったのかはわかりません。ただその田舎の漁業集落には現在1つの海産物生産・販売店があります。これが典型的な工業化移行とするには無理があるのは十分に承知しています。〔後で簡単な補足説明をするつもりです〕。

第一次産業(農村漁業、狩猟・畜産業)は食料と衣料・住居の原材料の生産現場です。それを維持(再生可能)にしながら、製造業にすすめる——いわば土台(下)から製造(上)に進めるという構造——のが正当な発展の道ではないか。その過程には、市場という販売(ときには輸出)状況とのバランス計算が入ります。こういうバランスのとれた発展が形づくられていないなかでの工業化計画が、とくに発展途上国で、いや業種によっては先進工業国でも遂行され、失敗を重ねている例を目にします。

発展途上国では経済産業を発展させるために、工業化を上から(すなわち政府主導)で実行します。うまくいく場合もありますが必ずしもそうとはなりません。私の思うところでは(1)当事者である生産者の状態や意見を取り入れる仕組みに欠けること、(2)上からの指示過程が上下(支配従属)関係になり、収賄の条件をつくり、構造を腐敗させること=ときにはこの不正常な過程が実務的・合法的なシステムとして機能しています。ここに私はGDP優先の経済開発計画の弱点を見る思いです。

猪木武徳『戦後世界経済史』(中公新書,2009)では、GDPにふれることなく、次のように論じています。制度優先論(権力を制限した政府により、人と資本を育てて経済成長に進む)と開発優先論(市場を重視する強力政府で経済発展が進むと政治制度の改良が進む)の2つの仮説(平たくいえば民主制と独裁制の対比)を示した上での暫定的結論といいます。

「現在のところ、人的資本、すなわち人間の知的・道徳的質が、成長にも民主化にも一番重要な要因と考えられること。政治制度は経済のパフォーマンスにとって二次的な効果しか持たないこと、第一次効果は人的・物的資本であること、人的資本の乏しい国(教育や道徳水準の低い国)でのデモクラシーの実行可能性はあやしく、人的・物的資本への投資から経済成長へ、そしてデモクラシーなどの政治制度の整備・確立という方向への展開の方が因果関係として重要だということになる。言い換えれば、貧しい国は独裁のもとで、人的・物的資本を蓄積し、ある程度豊かになった段階で、政治制度を改善する可能性も現実的な政策として考えられるということになる。この暫定的結論は、慎重に取り扱われねばならない。その独裁が誰の、いかなる体制か、によって結果は決定的に異なってくるからだ。さらに「ある程度豊かになった段階で、政治制度を改善する」と言っても、そうした権力の移行が平和裡に行われるとは考えにくい」(p371~372)。

私の感想はこうなります。農業集団化、工業化推進の失敗とその失敗を率直に認める政府・政治指導者は「制度優先論」に属する。猪木さんのいう暫定的結論ではなく、私には決定的結論になります。政治的民主制の社会では即断実行はできませんが、安定的にことを進めるのです。

農業集団化策はGDP優先策の失敗例

私の唯一の外国の知人はモザンビク人です。1975年同国が独立後に外務副大臣を務めた人なので、友人というにはおそれおおいです。
そのモザンビクで数年前にプロサバンナ計画という集団農業化が進められました。これには日本もJICA(日本国際協力機構)を通して協力していました。それに現地の農民団体が「小農は地球を救う」と反対し、集団化を達成することなく「目標は達成された」と宣言され終わりました。JICAの関与に反対していた日本国際ボランティアセンターがこれに関わり、この団体の一員がモザンビク入国禁止にされました。
私がアフリカ(このばあいはタンザニアとモザンビク)に関心をもったのは1960年代末から1970年代のことです。タンザニアではアフリカ社会主義という理想の下に農業の近代化、集団化が進められました。統計(数字)上では、農民家族の80%がその農業集団、ウジャマー村に属するとされているのを読んだ記憶があります。しかし内実は多くの問題を抱えており、自分所有の耕地の農作業が重点になり、集団農地は放置され、農業危機の恐れが生まれました。結局1980年ごろにはウジャマー村政策は公式に廃止されました。「廃止」という潔い決定をしたことはむしろ称えられます。
こういう結果は、タンザニアやモザンビクに始まったのではありません。ソ連のコルホーズ、ソホーズ(国営農場)でも、中国の人民公社も失敗しました。農業を近代化するには集団化し、機械化や化学肥料により生産高を高め、輸出農作物を大量に生産する——政府・政治指導部はそのように考えたのでしょう。
農業に従事する農民や農業労働者が毎日の生活に必要とするものは何か、生産意欲の視点の欠如です。GDP(国内総生産)を優先し、国民の生活に求められた農業・産業発展計画ではなかった——それが全部の理由とは言いませんが——のです。
日本では戦後(1945年以降)の農地改革で、地主的所有関係は自作農育成が行われました。地主的所有関係は集団的農業には進まなかったのはよかったと思います。もっともそれで十分満足とは行きません。1960年代中ごろ以降(すなわち高度経済成長期以降)の動きです。農業・農村軽視がいま日本の農業の衰退につながっています。
日本の経済発展計画はある程度発達した状態において高度経済成長という工業化、重化学工業化が進められました。それに伴うエネルギー政策、交通ネットワーク(鉄道・道路、運輸・通信など)づくりが考えられました。なかなか難しい計画策定と実施ですが、1980年代までは世界的には大成功の部類に入ります。しかし、その動きの中心には現場の生産従事者(当事者ともいえる)、国民の中心部分はいなかったことが、1990年代以降に表面化したのです。
経済政策は、多くの国民の利害が関係する難しい問題です。政治(とくに政府)指導者の指令で決める方策では現実離れしてしまうのです。

GDP基準の開発計画の歪み

私は中学時代に社会科で2つの珍しい経験をしました。1つは教師から質問をされる前に答えたこと、もう1つはテスト問題配点10点のところ20点をもらったことです。1960年のころであり、この中学校の教師たちの雰囲気が表われていると思います。このエピソードは自作エッセイ集『アスペルガー気質の少年時代』(2025年4月,500円・送料210円)に所収。
宮脇先生は理科担当ですが、近くにきたとき「きみは社会科が得意というので聞くけどね…」と話しかけてきました。私は瞬間にフッと感じるものがあり、質問される前に「コルホーズですか」と返していました。当時は農業の集団化が話題になり、ソ連の集団農業コルホーズが教師の中でも話されていたと考えられるのです。理科の教師であることも1つのヒントで、社会科に関してはそう細かなことは尋ねられないと思ったのです。
コルホーズ、農業の集団化はその後失敗しました。ソ連邦崩壊の遠因の1つでしょう。しかしそれはソ連(ロシア)だけのことではなく、中国の人民公社、タンザニアのウジャマー村なども失敗しています。この点は改めて述べます。
もう1つの「テスト配点10点のところ20点」は社会科の期末テストで担任は山崎先生でした。設問は「加工貿易国日本の未来」。テスト用紙の下方に10㎝幅の空白があり、そこに文章で答える形でした。私の回答はテストの裏面にまで及び、たぶん20行近くになったと思います。どのように書いたかはうろ覚えです。「後進諸国で工業が発展しても日本はさらに先に進むので、加工貿易国はしばらく続く。遠い先はわからないがその時には別の条件が出てくるので解決策は出てくるだろう」。回答内容は今になって推測はです。山崎先生はこの部分に20点をつけました。別の個所でミスがあり満点ではありませんでしたが、テスト合計は100点を超えました。
工業化や重工業化は、とくに発展途上国の経済開発政策として多くの国が採用しました。しかしその結果は必ずしもうまくいったとはいえません。それは各国の経済生活の基本である第一次産業、とりわけ農業の発展とのバランスが大事であり、工業化もまずは軽工業である繊維産業や食品加工業を大事にしなくてはならなかったのです。現実にその部門で働いている人々の状態、現実や意見を取り入れないで理想を語る政治指導者の指令によって進めたことに関係する——これが私の得た感触です。
この2点は猪木武徳『戦後世界経済史』(中公新書,2009,940円)を読みながら浮かんできたことで、GDP(国内総生産)の増大を優先した経済開発によります。私はGDP偏重の経済開発策の限界を見る思いがします。

社会的経済活動は定量的、家族内の活動は定性的

子どもが生まれてから成人するまでの過程がすべて親の子育て期間です。子どもの生育・成長とともに、子育てもその程度や内容は少しずつ変わり、子どもは相対的に自立していきます。

生後すぐの時期は〈乳児〉であり、ほぼ完全に親またはその代理者が世話(ケア)をします。だいたい2~3歳ころから〈幼児〉の時期になり、多くは小学校入学前の6歳ぐらいまでが相当します。この乳児から幼児にかけて家庭の外側(社会)にできたのが、保育所や幼児園などの援助施設です。

就学以降は学校(およびそれに準ずる場)が対応施設で、教職員が重要な役割をします。教育は教員中心ですが、中学校、高校に進むにつれて個人差の大きくなり、養護教諭、教育相談員(カウンセラー)などと関わる人も出ます。学校以外の生活場面も広がります。保育の延長としての学童保育は学童保育指導員がいます。個人によっては各種のスポーツ・運動クラブ(コーチ・指導員)、文化活動的な習い事(ピアノ教室、英会話教室、絵画教室など)、それに学習塾は多くの子どもたちが通います。この就学時期(小学校・中学・高校)になっても親(家庭)の子育ての役割は続きます。

かつて中学校卒業時点(15歳)で仕事に就くのか、進学に進むのかの分岐点でした。私は山陰の田舎育ちで1960年ごろの高校進学率は60%程度でした。全国平均的にはもう少し高かったと思います。高度経済成長期(~1970年初めまで)を通してこの分岐点は、高校卒業時まで移動しました。私は1964年に高校卒業とともに就職し、同時に夜間大学に入学しました。2000年以降はこの分岐点の中心が大学卒業時まで移動していると思います。

分岐後は生活の中心が仕事か学業かに分かれます。仕事に就いた人は、親の子育ての半分はなくなります。なお進学し学業を続ける人に対しては基本的には親の生活費負担は続きますが、奨学金(当人にとっては就職後の負債返済)を受けたり、アルバイトによってある程度の収入を得ます。

子育てと子どもの教育期間を通して、親(家庭)は、生活費と家族内ケアを求められ実行します。この家庭内ケアの部分は、家庭外に支出される学費、生活費、文化活動費…などと違って、経済的な評価の対象から外されています。すなわちGDP(国内総生産)に計算されません。家庭の外の活動は基本的には金額により定量的に計算されます。家族内のことは全部金額計算されません。その活動を私は定性的(質や状態)に評価してもいいと思います。金額評価できるかもしれませんが、判断材料は〈時間〉はどうでしょうか。自信はありませんが、家庭内ケア、子育て活動を時間単位で表示できるとすれば……どうなるでしょうか。

家族内ケアの評価は私の知る範囲では同種労働の市場価格を参考にする方法が試みられています(「 家事労働を金額評価する基準作成の動き 」を参照)。また子育て手当などの支援制度もあり、これは定性的評価につながるかもしれません。

12月20日はセシオネット親の会

11月の会は親の参加が3人、ひきこもり経験者2名に松村さんと松田の7名でした。世のいろんな事情とともに親の会らしい内容でした。その感想を「人材派遣会社と清掃作業」と「家族介護援助サービスという視点」として書きました。

ひきこもり経験者が参加する親の会にするには「なお自然な流れに従う」のが必要だと思います。しかし、11月の会合はちょっとした糸口になったと思います。基本的には親側とひきこもり経験者に共通するテーマが求められています。予定してはいませんでしたが、11月から取り組み始めた「アンケート」がその材料になりそうな気配がします。

回答のなかに《ひきこもり支援というよりも、どのような社会(国)にしたいか、という課題になる》という言葉があります。私の考えと重なります。これが全体の姿を表しているとすれば、個別の要望も書かれていました。《ACT(重度精神障害者に対して、24時間・365日体制で訪問医療)を普及してほしい》とか《公的な家賃補助の制度があれば助かる》です。これからもアンケートの中にいろいろな状態とそれに即した要望が書かれてくると推測できます。

今の時点でその全体像を描くのはいささか無謀とも言えますが、ある程度は推測できます。エッセンシャルワーク(人間の日常生活を維持するために不可欠な仕事)に関係することが優先。個人・家族が関係する衣食住(家族ケアや水光熱)、その次に公共交通など地域の要件も公益的なエッセンシャルワークを構成しています。これは地域環境に関係することで自治体や国の課題になります。

順番としては「ひきこもり」に関係する場を考えた要望がまずあります。それを「社会(自治体と国)」の場に進めていきます。そういうことを期待して次項に紹介するアンケートを多くの方から送られるのを待っています。あわせてこのまとめを一緒に考える人がいれば嬉しいのですがどうでしょうか。少なくともセシオネット親の会で親とひきこもり経験者が一緒に話し合うテーマにして行けたら…。急ぎませんがそういうテーマを意識のどこかに置いた親の会になればいいのですが。

☆12月のセシオネット親の会

セシオネット親の会の定例会は毎月第3土曜日、午後2時~4時です。12月20日(土)14:00~16:00 ★曜日・時間に注意場所は助走の場・雲:新宿区下落合2-2-2 高田馬場住宅220号室参加等の連絡は、松田(open@futoko.info/03-5875-3730)までお願いします。