(116)『平成23年は、どんな年に。』

3月 1st, 2011

 本年もまた、早々と新しい年を迎えてしまった。
 一年一年が瞬く間にも早くに過ぎてゆき、自分や周囲における物事や状況等も、同時に年期が過ぎる事になる。
 今から一昔程前での、1999年から2000年度に変わる少し手前の時に騒ぎ立てた2000年問題。
 結局、何も起きずに電気やガス等も平常に使用ができる状態で続いている事となっている。
 言わば、一時での笑い話のようであったかに過ぎない。
 そんな事柄があった時からも、21世紀になってから丸十年は経った今現在。
 平成時代に入ってからも22年過ぎた現在、いつの間にやら、昭和期が程遠い昔となった。
 幼かった子どもの頃、当時、新築したばかりに初めて自宅として買った集合住宅も、築40年程が経ち、今では居住者も減り、自分も既に数年程前には新しい住宅へと移転をしている。
 決して人間は、再生できない生き物でしかない、他の物は再生できる物もあっても。
 心が未成年のようなまま、繰り返し、やり直しながらに生きている。
 大人になっていくだけが、人生全てではないのだと。
 もう、いつまで過ぎた過去の話に浸っているのさ、いつまで、大人になりたくないと悩んでいるのさ。
 でも、僕は考え悩む人だからさ。
 時には、ふざけたような人である。
 毎回のようであるように、何にも結論などは出せないままに話題の終止符を切ってしまう。
 何かに実りを咲かせる事もなく。
 何もかもに全てが終わらない限りは、よくわからないままに続く事になるであろう。

(115)『ロダンは考える人か、ふざけた人か。』

2月 1st, 2011

 日が暮れ始める頃での、寒の入り時期である夕暮れ時。
 いつも多摩川の川辺りに来ては、一人で夕陽を眺めながら思い出に浸る。
 一週間、御苦労様だったねと、沈みゆく空の夕陽や川を見ながら心につぶやきかける。
 そして、川に跨る東京と神奈川を境とする鉄橋を走って行く新幹線や貨物列車など。
 自分が幼い子どもの頃から、全く変わっていないような川の風景。
 これから二度と、若返る事のない自分。
 それは、誰も同じであるかもしれない。
 ただ漠然と過ごしている間に、気が付けば年老いてしまうもの。
 何かに急ぎたくもなければ、何かに焦りたくもなる。
 けど、何にもあがきようがない。
 だからと言って、何にも割り切ってはしまえない。
 もう過去の若い自分には返れなくても、未来の自分になどは期待せず、現在にいる 自分と付き合うしかない。
 ごく当然なようで、あれこれと思い悩んでしまう考える人。
 又、ふざけた人間でもある。
 僕はずっと考える人である。

(114)『リバイバルをしながらに』

1月 2nd, 2011

 あの時、いつも身近な存在であった君。
 今頃、どこでどうしているの。
 幸せに生きていますか、互いに疎遠となった今では。
 何年か前であった、あの時では、何かと僕に世話をやいてくれていた君。
 もう再会をする事は出来ないとしても、全て終わった訳ではないよね。
 僕は現在に至り、再び、ヒッピーのような自分へと陥りかけてしまいそうさ。
 一時では、きちんとした真っ当な人間へと立ち直ろうとは心がけていた時もあったけれど。
 けど、それは自分に無理があったかのようにも感じてきた。
 「無理するな! 無理するな! 無理するな!」
 身の回りにおかれた状況や境遇などで、自分が何なりと感化されやすいような奴なのである。
 環境の動物、それも一つの人らしさな部分であるのかもしれないが。
 また再び、あの時の出会いに境遇するような御縁があれば。
 今は、ヒッピー少年のような青年でいる自分。

(113)『再び、バーチャルな妄想へと沈む』

1月 1st, 2011

 もう、思い浮かぶような種はない。
 いつまで文章を書けば気が済むのだろうか。
 もう現実から目を反らしてしまいたい。暫くの間は。
 夏であった時の心境とは打って変わり、どこかで気弱な心となってきた。
 そしてまた、色々な物への否定的な感情をも抱き始めている。
 自分自身がシャットアウトをしたい気持ちを強く抱き始めかけてきている十二月での時期。
 今年も残りわずかとなってしまった。
 心の中での悲痛な叫びが聞こえてくる。
 今は近くに居なくなってしまった、あの頃いた誰かさん、今すぐにでも声を聞かせてほしい。
 今すぐにでも、自分の前に姿を現してほしい。
 いつでもそばに居るよと、そう、ささやいてほしい。
 ずっと待っているのさ、僕は。
 どんなに叫んでも、叫び足りない程さ。
 いつまで自分を、今のままの境遇に置きざりにしているのさ。
 非現実的に、非日常のようなリズムへと陥っていく。
 無理に上を向くな!

(112)『ただ、文集を書いていても・・・』

12月 3rd, 2010

 又も、様々な社会における物事におき、現実逃避をしたくなってきた。
 今のままではいけないとは常に心に言い聞かせてはいても、やはり、そのままにして日々あっけなくも過ぎてしまう。
 どうにかしなければいけないなどと言っても、全ては時の経過でもあり、何でも時効となって忘れてしまうもの。
 しかし、決して忘れられないような事もある。
 ずっと迷ってばかりいても、何かに気後れをしていても、全て駄目な訳ではない。
 割り切ってしまえなくてもいい。
 全てどうしようもない程な、ろくでなしなお馬鹿さんでいい。
 信じられない程なお馬鹿さんのように、表向きを見せかけていても、心の底では何かに悩んでいる。
 いつか自分が悩み叫んでいたような事が、それとなく笑い話であったかのように思える時が来てしまった時こそが、本当に悲しく哀れな時になるかもしれない。

(111)『何だか支離滅裂になっちまった』

12月 2nd, 2010

 夏が過ぎて、少しずつ寒気が漂うような10月後期。
 時間だけは流れて行く、今におかれている尊さを、誰も強くに実感しないままに過ごしてしまっているかもしれない。
 幼かった子供の頃へとは、もう二度とは返れない。
 ごく当然なゆえに、無念さながらに。
 ずっと長期の間に至って、幼想ばかり抱いている。
 もっと正常から外れてもいい、笑いや喜劇などの内容のものとは別で、何処かは信じられないと思わせる事柄や、又、あり得ないかのような事態へとわざと見せかけるもの。
 笑いが多くても、後が切ないものである。
 常に笑顔は見せたりしない、それ程に世の風は甘くなどはないのだから。
 自分が少々なりともに意地悪なようで最低な奴だとも思われていたい。
 何でも美味しい話や、甘い誘惑になど負けたりしてはならないのだ。
 なんて偉そうに、ろくに何も努力もしないような奴が、そんな自ら自身が全く堂々とほざけるな!
 けど、それが僕自身さ。

(110)『ずっと29才でいる自分』

12月 1st, 2010

 まだ当分の間、気持ちは29歳のままでいる。
 それ程に深い理由はなく、若すぎる程の年齢でもなければ、壮年期にはなっていない程度での青年期半ば時期。
 少年少女期での年頃よりは、多少とも大人に近く、中高年期から比べれば遥かに若々しくはなる。
 僕はずっと29歳のままでいる好青年。
 どこかは現実逃避をしてもいい、子どもを持つ父親などになるより、もっと自分を今より若かった少年期からやり直すのだ。
 未成年までは戻らなくても良いが、これから歳を老いて行くよりも前での今現在の青年期後半のうちに、心は少年のような青年らしさを発揮したい気持ちが強くある。
 それまでにおける内容での意味が、自らでの29歳において拘る愛着心である。
 子どもの頃へと若返りたいと言う訳ではない。
 (実際には30代を過ぎている。)
 自分が大人としての自信が持てない事での言い訳ではあるけれども、どうか笑ってくれ、ふざけた奴だと、笑ってくれ。

(109)『いったい何が言いたい』

10月 3rd, 2010

 華やかな世界の、その裏では見るにたえない程にも、どろどろとした血が流れている。
 麗やか世界での舞台裏。
 姿形に表向きを輝いているかのように装う世界には、その内側では様々な葛藤や、耐え難い程の試練の数々がある。
 もう二度と忘れてしまいたい、あのような苦しみや辛さなどは。
 笑ってばかりが人生ではなく、苦しさや切なさが主な題目であるとしたならば、一艘の事に真面目で全うな生涯などは歩みたくはないとも思えてくる。
 他の社会を馬鹿にしたりはせず、自らこそが馬鹿でろくでなし者である。
 人よりも自分は、最もふざけて生涯を送ってきたのだ。
 全く何にも自慢にはならない事かもしれないが、それで全て否定となる訳ではない。
 ある時期での、思春期における性癖なものへの悩みや、又は欲求不満など。
 どこかで話題の主旨から外れても、そこで顰蹙を浴びるも良しである。
 ずっと夢を抱いていてもいい。
 他に何もなくていい。
 欲望などは少しだけでいい。
 どこかは逸脱していてもいい。
 それが自分らしさである。

(108)『ほら、足元を見よ。前を見よ』

10月 2nd, 2010

 まだ、心は死んではいない。
 夏も終盤となり、秋の風が近づいてきている九月半ばな今日この頃。
 どれだけに切なくやるせない思いであっても、自分を全てに諦めたりはしない。
 やっと少しずつ見えかけてきたような自分らしさ、今までの生涯を色々と振り返っては、決して、ただ呆然と過ごしてきた訳ではない。
 それまでに至り、笑って過ごしてきた事などは数少ないものであった。
 本当の意味での笑った事などは。
 嬉しさや喜びなどといったものなどは。
 めでたい事など、ほんの少しだけで良い。
 何かに絶望を感じた時、また次のものへの光が見えてくる。
 その時は哀れ悲しくても。
 歩く道や線路が続く限り、ひたすらに歩いて行こう。
 終着駅へとたどり着いたら、そこはまた、始発駅でもある。
 線路は続くよ、どこまでも。
 線路は続くよ、どこまでも。
 続く限りに、歩いて行こう。

(107)『明るい社会などと、ほざくより』

10月 1st, 2010

 もう、どこかで何かにおいての限界が近づいている。
 全てに安心をしてしまうには、まだ早い。
 まだまだ、安心などしてはいられない。
 今のままで、安住にかかってしまってはいけないのだ。
 「いつまでも、あると思うな、親と金」
 それは、まさにその通りのようでもある。
 いつでも平和なように生きているだけでは、後になってからに、何らかの附けがまわってきてしまうこともあるから。
 いつか自分が、立派な大人として笑って過ごしていられるかではなく、今にいる自分であるうちに、悩み苦しみ、又時には、ふざけ合ったりもする事が、最も大事な時期なのでは。
 叫んでいてもいい、不適切なものなどは壊してしまえ。
 もっと叫べ、もっと笑え、もっと泣いてしまえ。
 夢見る心があっても良い。
 時に現実逃避をしたくなっても良し。
 ろくでなし者でいる事程、自らも誇らしく思えてくる。