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第三章 母と、娘の個の確立ー山岸涼子の作品を中心に

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第三章 母と、娘の個の確立―山岸涼子の作品を中心に

では、24年組の作家の一人、山岸涼子の作品から見てゆきたい。
山岸涼子は24年組の作家たちの中でも母をテーマとした作品を数多く描いている。
初期の作品で母をテーマとしたものに『赤い髪の少年』(1973)がある。
この作品は、夫との間の不和から、子に冷たく当たる母と、第三者(ここでは父親の友人)の理解によって救われる子の話である。
同年に発表された『ラプンツェルラプンツェル』では、娘の裏切りを恐れて塔に閉じ込め、娘を外に出さない母と、未だ母親しか見えない娘、そして二人の関係を引き剥がし娘を自立させるステップの役割として第三者の青年が登場する。
二作品とも母親の支配が強く、しかも母親以外の人と関わることを禁止するなど、子の自由を束縛する強権な母親から逃れるために、第三者の存在が子にとって必要不可欠であることを示していると思われる。
そこには子の自立を阻む母と、母から引き離す第三者という構造が見られ、それはその後も、山岸涼子の作品中で、より洗練された作品として何度か出てくることになる。
『スピンクス』(1979)はその超現実的な表現形式においても傑出した作品である。
主人公は少年という設定で、後に述べる萩尾望都の作品を含め、この頃の少女まんがは主人公が少年という設定が多いが、作品は女性の作者が母を描いたもので、少女誌に掲載されたものであるから、問題自体は、母と娘の問題を取り扱っていると考える。
ここでは主人公の少年は魔女の館に閉じ込められている。
魔女、スピンクスは、謎をかけに来るが彼は声を失っていてうまく答えられない。
答えられない時は「死」が待っているのでかろうじて答える。
やがて彼の前に人間の男が現れるのだが、彼はスピンクスに男との意思の疎通を禁止される。
最後はようやく男との間で意思が通じ、魔女の館から出るまでが描かれる。
この作品では超現実な表現をとりながら、心理描写の意味するところは隠喩を用いて、問題提起を行っている。
まず、主人公が、館から出られないこと、また、ぬれた毛布にくるめられるという表現があることから、イメージ的に胎内をあらわしているようである。
ここではまた、主人公が声を失っていることも重要である。
子供は、母との主客の分離以前、全エディプス期においては、まだ言語はなく、子供は言語を習得して初めて個人になるといわれている(平林2006、5ページ)。
声は言語をあらわす媒体であり、声を失っていることは個人としての存在を失っていることと同義である。
ここでは、魔女の問いかけに人間と答えることでかろうじて生きるが、謎に答えられない時は自分がないことで、すなわち「死」と同等であることを意味していると解釈できる。
主人公は、最後は若い医者である、第三者との意思の表現により魔女の館から開放される。
『スピンクス』では、母からの個としての分離に際して子が自分の意思を強く持ち、閉鎖的な母との関係を壊すことが個としてあるための必須として描かれているが、山岸の作品では子が母親以外の人と意思疎通することを母親が嫌うという描写もあり母親側の子への不適切な接し方を描いている。
同じテーマを描いたものに、萩尾望都、『カタルシス』があるが、ここでも母親の思い通りから抜け出すために意思をはっきりさせることを重要としている。
『カタルシス』をふくめ、どの作品を見ても、母と子との分離をテーマとした作品では、母との間で摩擦が少なからず起こるようである。
これは、母と子が分離するのは、子が母の支配から抜け出すことを意味していて、母側にも強い葛藤がありこれが母が子の自立を妨げる要因であると思われる。
今までに上げた作品は母からの分離が成功した作品だが、1997年発表の『メディア』では、第三者が登場しない母と子だけの間で、娘の自立に耐えられない母親が娘を殺害するラストで終わることで自立させない母親の危険性を母と子の分離の失敗するパターンとして描いている。
母と娘ではなく、母と息子を設定として描いた作品であるが、もう一つ第三者は現れるものの、うまく母との分離が果たされないで主人公の死で終わる『セイレーン』(1977)についても述べておく。
セイレーンはギリシャの島を舞台として、幼いときに母親をなくしているニコという少年の、母を追っての海への身投げが描かれている。
子にとっては母とは強い執着の対象(水間2005、286ページ)なのだが、生の初期段階での母との未分化、生命を維持するための強い母への執着は母から心理的に自立できないでいることで、ここではそれも死と同義であることが暗示されている。
その後この作品に続いて発表された『妖精王』(1979)により、『セイレーン』で果たされなかった母との対立と分離テーマになり、母に勝利する物語が描かれる。
『妖精王』は、ファンタジーの形式をとりながら、心理的に、母の支配を脱し、父への信頼を確立する物語である。
『妖精王』のなかで、母のイメージをもって描かれるクイーン・マブは、本性は魔女のような女性なのだが、優しく美しい女性としても描かれ母の持つ二面性を表している。
と同時に子の成長とともに変化することの象徴である。
二面性を持った母親が描かれた作品に同じ作者で、『鬼子母神』があり、子は、こういった母の二面性に気付くことにより、母親を客観的、批判的な視点で見ることを可能にし、母からの分離を促す。
また、ここでは、マブとの対決の際、「父」イメージを持っているクーフーリンへの主人公、ジャックの側からの信頼が一貫して物語の構成の上で重要な位置を与えられていることから、ここでも、母との対決に際して、第三者の存在が大きい。
しかし先述の、『赤い髪の少年』や、『ラプンツェルラプンツェル』などでは、母から逃れるための第三者であったのと比べて、子供側から能動的に父親との関係を信頼することを重要としていることが先の二作との違いである、
繰り返して言えば山岸涼子の作品では、娘にとっての心理的な母殺しは、母と子の分離、娘の、個の確立のための必須であった。
それには第三者の(時として父)の存在が必要不可欠であったといえる。
山岸涼子作品では母と子をテーマにした短編が多く、この他、『狐女』、『鬼来迎』など、子供を拒絶する母、虐待する母など、マイナスイメージを持つ母親像をたくさん描いている。
しかし、山岸涼子はそういった母親像を描くことで主人公の母からの自立を促すものとなっている。
それは、そのまま読者へのメッセージである。
母と対立し、母に勝利する物語として、『デザイナ一』(一条ゆかり1973)がある。
『デザイナー』は、孤児育ちの娘、亜美が、有名デザイナーの実母に対しての敵意から自分もデザイナーとなる。
弟の助けを得たり、亜美がそうとは知らずに実の父親に思慕の念を寄せるなど、エレクトラコンプレックスをそのまま映したような家族内での感情をテーマにしたもので、最後は亜美と弟の破滅で終わる。
最後は主人公の死で終わっているが、この場合の主人公の死は、母への反感などの母へのこだわりの感情自体の死であるととらえられ、母との分離がなされた後の死であると解釈できる。
この作品でも母親に対しての対抗意識がテーマとなっているが、この作品は母親と娘の戦いを援助する存在として弟が登場し娘を助けるのが特徴だ。
この作品では姉弟の二人は双方ともの悲劇的な最後で終わるが、デザイナーと似た構造を持つ神話で、男女の双生児が、それぞれ父と母を殺し、兄妹で結婚し、人々を苦しめていた怪物を退治した後、ついに思い上がった二人が、神々に滅ぼされる、というものが伝わっている。
この神話の二人に対して水間碧は『隠喩としての少年愛』の中で、二人の破滅について、「母の支配に取って代わった子供の全能感の消滅を意味する重要なもの」ととらえているから、『デザイナー』にあらわされたヒロインの死も、母との戦いに勝利した後の全能感の放棄という意味であるという解釈も可能だ。
 

少女まんがに描かれた母親像
第一章 子育てに関する家族史
第二章 まんがについて
第三章 母と、娘の個の確立ー山岸涼子の作品を中心に
第四章 母の生き方と娘ー萩尾望都の作品から
第五章 1980年代後半からの母性肯定とその後
結論&註・参考文献・まんが資料

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