第四章 母の生き方と娘ー萩尾望都の作品から
第四章 母の生き方と娘―萩尾望都の作品から
次に、24年組の作家の中からもう一人、萩尾望都の母親像を見てゆく。
『トーマの心臓』(1974)は、萩尾望都の代表作といわれている。
転校生、エーリクの左手には指輪があり、彼はそれをママとの婚約指輪と答えている。
彼は全寮制の学校に入っても母親の手紙を待つが、母親の事故死の知らせを聞いてショックを受け、実家に帰って母の死を悲しむ。
実家から学校の岐路途中で、彼の左手の指輪が抜け、その後、彼は義父と同居することを決意するまでが描かれる。
この作品では、母親は子との仲が良かった母として描かれてはいるが、母との婚約指輪を身につけるという表現が、行き過ぎた密接さを表している。
母との強すぎる結びつきもまた問題であって、母と個対個の関係を築いた後での、「〈良い母親像の〉死」は自立のために有効である。
母の死が事故という設定とされているとしても、ここでの母の死は、母との分離の問題ではなく、分離後に『個』として関係を築いた後の死であり母から離れて、大人になる事、社会に属してゆくことと同義の「母の死」である。
ここでも父親の存在が重要だが、ここでは山岸涼子の作品のように母から個を確立させるために必要なのではなく、父を受け入れる事で、父の属する社会への移行の意味だと言われている。
『トーマの心臓』では、母との問題は、母との関係と自立の過程が一つの典型として描かれている。
萩尾望都の初期作品では、『毛糸玉にじゃれないで』、『赤毛の従姉妹』など、母との関係は比較的良好なものとして描かれるものも多い(註3)。
この話は少年が主人公で、男性の読者にも受け入れられた作品あるが、母から父への移行という形は、女子にも当てはまるものと思える。
次に、『かわいそうなママ』(1971)と、『メッシュ』(1980)を見てゆく。
『かわいそうなママ』は萩尾望都の初期作品である。
場面は、主人公、ティムの母親の、葬儀の場面から始まる。
彼女は生前から病弱で、生気の無い人だったが、ある日自殺する。
葬儀後、母親の恋人にティムは、彼女の死は自殺ではなく自分が殺した事を打ち明け、それが母にとっての救いであったと語る。
萩尾望都にとっての母親像は、このように、弱い存在や、精神を病む存在として描かれていることが多いが、『メッシュ』においても同じである。
メッシュの母親は、彼を生む以前に女の子が生まれてくることを望んだが、メッシュが男の子である事実が受けいれられず、現実の世界を認知することが出来なくなった母として描かれている。
メッシュが会いに行っても彼女は自分の息子と気付くことはなく、彼を嫌うが、それは彼女が女性であるために、父親から省みられることがなく、父親は彼女の弟を愛し、彼女は自分の弟に嫉妬していたことが明らかにされる。
メッシュにとっては母親は遠い人でしかない。
この、弱い母親像、自己疎外状況にある母親像は、日本の近代化と密接な関係にある。
水間碧は『隠喩としての少年愛』の中で以下のように書いている。
「24年組の作品に描かれた以上のような母親と子供の現実の背景は、実は簡単なものである。というのも、日本の近代において西米近代の諸価値こそ、目標として同化し乗り越えるべき「父」であった。
そこでの近代は男性にとってだけでなく女性にとっても獲得すべき対象であったが、成長し、父と戦ってやがて大人になる男性はともかく、女性たちは女性であるために、父の正当も継げず、また父の諸価値に忠実であればあるほど自己否定せざるを得なくなる、まさに凶器の温床とも言うべき心的疎外状況に陥るからである」(水間碧2005、196ページ)。
団塊の世代の萩尾にとっての母親像は、男性社会において自己を否定して生きる空虚な母として描かれることが多い。
空虚な母はまた、娘にとっての問題であった。
それは、娘も女性である以上、自分もまた母のようになる可能性があるからである。
それでも、『かわいそうなママ』において、母を窓から突き落とすシーンが描かれているのは、この場合は、親世代の生き方への反感、母と娘の生き方の別の表れであるとして受け取ることが可能である。
『かわいそうなママ』は、娘の母の生き方に対するアンチテーゼである。
この他、男性社会に迎合し、主婦として生きる母親と母親の男性中心的生き方に反感持つ娘を描いた作品、『午後の日差し』(1992)もあり、萩尾望都の作品では概して、母は、娘にとって、母親は男性社会に組み込まれた生き方として弱い存在で批判的な視点で見られる。
萩尾望都は母から社会への移行や、男性社会の中で抑圧された母など、より男性社会を踏まえて母と娘の関係を描いているといえる。
萩尾にとっての母の問題はこの後もひき続き描かれる。
『マージナル』(1988)において萩尾は、有害な菌類の女性が不妊になった未来の地球で、女性が一人のマザという虚像の母を除いて全て男性で、子供は人工的かつ政府の管理下におかれる世界を想定している。
個々では主人公キラは人工的な実験によって命を与えられ、彼だけ、不毛の地球で妊娠する能力を持っている。
この作品は、母と女性の居ない世界を設定し、かつ、それを不毛なものとして描いたことで、フェミニズムまんがとしてとらえられている(『コミック学の見方』1997)。
しかしこの作品はフェミニズムととらえるよりは母を否定した作品ととらえるほうが納得いく。
母代理であるマザは、二度にわたって殺され、子供は人工的に作られ、主人公自身実験で作られた子である。
この、母から生まれることなく作られた子という設定は、母から生まれてきたことの嫌悪を表していると考えられる。
また、キラの口からは「もう子供を生まなくても良いんだ」という台詞が口にされ、キラにとっては、母親になることも出来れば避けたい事として表されている。
ここで萩尾は女性と母不在の世界を設定し母になることをも否定するが、それ自体不毛なこととしていながらも、この物語において明確な答えは出されていない。
自らの女性性を問題にした作品『11人いる』(1975)では、主人公フロルは性別を自分で選べる設定がなされてフロルは女性になることを最終的に選択する形で終わるが、この作品では、キラは妊娠しながらもその子を産むことはついになかった。
ここでは、母のいない世界を設定しても明確な回答がないまま、母と自分が母になることは保留される。
『マージナル』は、母の生き方を自分のものにしないという延長上に自分が母になることの保留を提示した作品であるようだ。
萩尾望都の作品では母から自立後、関心は父親との関係を回復することに焦点が当てられるものが多く、母との問題がテーマになることは少ない。
母とのわだかまりを問題にした作品に『残酷な神が支配する』(1992)がある。
『残酷な神が支配する』(1992)では、母親サンドラの再婚によって、義父から性的虐待を受ける少年ジェルミの苦悩が描かれる。
彼は義父を事故に見せかけて活害するが誤ってサンドラまで巻き添えにしてしまう。
その後サンドラが義父とジェルミの関係を知って知らない振りをしていたことが判明し、ジェルミの心の放浪が描かれる。
『トーマの心臓』のエーリクは、同じ母親の事故死設定でも、悲しみははしたが、苦悩することはなかった。
ジェルミの苦悩は母によって傷つけられたことにある。
これは、父への移行や母の不在ではなく母親と向き合った作品である。
傷ついていること虐待の事実を否認されて傷つくところが描かれ、自分が傷ついている事を認めることが母親との関係の修復の一歩である。
この作品では悲しみ、怒り、許しを経て、親は子を愛によって傷つけるという母の愛とエゴを認めるという認識に達する。
ここでも母の二面性が浮上し、母の良い面だけしか見ないことよりも母の悪い面も認めることが母から離れる有効な認識として描かれ、トーマの心臓で描かれたマリエで描かれることのなかった、母の悪い面にたいしての答えが描かれている。
また、親世代も傷ついていることが終盤描かれ、子供は親の犠牲であり親もまたその親世代の犠牲であるという、親への視点がその親まで及ぶ形で描かれる。
少女まんがに描かれた母親像
第一章 子育てに関する家族史
第二章 まんがについて
第三章 母と、娘の個の確立ー山岸涼子の作品を中心に
第四章 母の生き方と娘ー萩尾望都の作品から
第五章 1980年代後半からの母性肯定とその後
結論&註・参考文献・まんが資料