●文通番号9-23  いじめについて

オーパーツ 〔福島県いわき市 男 28歳〕

 私は3年間のひきこもりの後、信仰をよりどころに土台づくりを今も続けています。そして今の仕事をしながらたくさんの人と関わりたい気持ちも出始め、社会復帰もそろそろかなと思っていたやさき、職場で大きな問題を起こしました。

 それまでは職場の人たちと楽しく雑談などは全くできず、ただただロボットのように事務的に仕事をこなしていました。(まわりの人いわくですが……)。

 ところがだんだん人と人間的に関わりたい気持ちが出始めると、職場の中の誰か一人を明らさまに標的にしたくなってきたのです。

 私は義理の兄が経営する職場で一応まわりの理解の元で働いています。そのため最初は相手の不充分さのせいにして、あの人とは関わりたくないと兄に訴えて、結局やめてもらったりしていました。ところが、代わりに新しい人が入ってくるととたんにその人の行動が気になり出し、またイライラしてくるのです。

 そんなことを何度か繰り返すなかで、兄も自分でも明らかに相手のせいではないと気づき始めました。

 最後の頃は新しい人がまた来ると聞いただけで意識し出し、ああまた標的にするのかと自分でもかなり憔悴する思いでした。明らかに自分のなかに自分の意思をこえて、誰かを標的にしないといられない、いじめないと気がすまないという思いがいすわっているのです。

 これでは職場をやめざるをえないと焦り、どうして標的を作りたくなるのかその原因を必死で探りました。一般のいろいろな人たちと関わる仕事(レントゲンをとること)がストレスなのか?職場が10人ぐらいの狭い世界だからか?子どものいじめのようにまだまだ未熟だからか?分析していく中で本質が見えてきました。それは私にとって昔からずっと抱えていた問題だったということです。

 多くのひきこもりの人同様、私も昔は母親や他人に気に入られようとずっと「いい子」を演じてきました。そして人前で自分の悪い面はほとんど出していないと思っていましたが、実は違っていました。

 小さい頃は自分より弱そうな子をずっといじめていたし、小学校半ばでいじめていた相手に逆襲されてからは、優等生意識に転じました。

 そして成績がよかったこともあり、自分は他人と違う特別な人間だと高校までずっと思っていました。そして大学で自分が凡人に思えてくると、また自分より状況の悪い子(学校に来ない人や留年した人など)を見つけて、「あいつより自分の方がましだ」と差別意識をもちました。

 つまり常に自分より下の人がいないとダメなのです。自分の存在意義がないのです。明らかにいじめの論理構造です。そしてそれはもちろん「いい子」ぶっていたことの反動、二重人格の裏の顔です。

 とすればやはり原因は、「いい子でいいなり」を強要された母親とのいじめ的関係にどうしてもいきつきます(自分の意思をこえてという意味でも)。

 そもそも言いなりの子どもということに関して、世間の認識はかなり間違っているように思います。そうなったのは母親が甘やかしたり先取りしてやってしまうため、子どもの自発性が育たないからだとよく言われています。

 しかし栃木の集団リンチ殺人事件、新潟の少女監禁事件、5000万円かつあげされた少年など、どれも激しいリンチ暴行を受け、反抗する力を奪われて精も根も尽き果てて、最終的に自分を殺し、言いなりになってしまったわけです。

 人が他人に対し自分を殺し、言いなりになってしまうということが、どれほど激しい心の傷を受けた結果かという事を想像してみてほしいと思います。

 まさに子どもが親に対して何も言えないでいい子ぶるというのは、そこに親子間の目に見えないいじめ虐待があったことを証明しているようなものです。自分の経験上、3歳くらいまでずっと殺される恐怖や地獄の苦しみが続いていたことが漠然と記憶にあります。ひきこもりの人の共通認識だと思います。

 ともかくいじめの問題でよくいじめられる側にも問題があると言われますが、それは前述のようにいじめられる人にも根底にどこか差別意識があって、それが学校の人間関係のなかで無意識に働いてしまう側面がかなりあると思います。いじめる側も同様だと思いますが。

 どうして学校でこんなにいじめが起こるのか、はっきりとした原因究明はなされていないと思うのですが、いじめがこれだけ社会現象化したのも、ひきこもりも、動機なき凶悪犯罪も、どれも母子関係のいじめ虐待の延長上にあるような気がしてくる今日この頃です。

 そして、ひきこもり(土台がない、自分がない)状態から社会復帰への道がはるかにけわしいことも痛感させられる毎日です。

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●文通番号9-12  憎み合うなら「人間」同士で

ミズキ 〔東京都八王子市 男 37歳 無職〕

 周囲の憎しみや軽蔑をきっかけに引きこもった人や、引きこもったことにより新たに憎しみや軽蔑を受けた人の数を想像したとき、必ずや引きこもり問題解決の重要なキーの一つとなるであろうと思われる「なぜ人は憎み合うのか」というテーマについて私なりに考えてみたいと思います。

 この世の中に渦巻く憎しみや軽蔑は全部までとはいえぬまでもほとんどは、現社会システムが不可避的に生み出すものといえるでしょう。なぜなら人間の営みのほとんどがこの社会では「善(社会の維持・発展に役立つもの)か悪(社会の役に立たぬもの)」という次元において評価されるからです。

 人間社会における憎しみ・軽蔑の多くが「自分は社会的に価値ある(正しい・優れた)人間なのだ」という思い上がった意識に裏づけられていることからもこのことは納得して頂けると思います。

 「社会」や「善悪」といった観念を持たない動物たちが、遺伝子にプログラムされた本能のままに振る舞い、欲望のままに生きながら無意識かつ結果的に彼らの社会を作っているのに対し、人間は「社会のために」自らの欲望を抑え、遊びたいのを我慢して勉強や仕事をします。

 旧来の日常的感覚からすればこれは「正しい」生き方なのでしょう。

 なぜなら個人の努力によって社会は進歩・発展を遂げ、そのおかげで昔は多くの人々がより幸せを感じられるようになった訳ですから。おそらく努力した本人も欲望を抑えたことによるフラストレーションを上回る幸せを感じることができたのでしょう。

 社会は努力した者にプライドを与え、個人はプライドと引き換えに幸せを手に入れる。いわば「プライドという貨幣」を求める人々の活動により維持され、発展する社会。ここに資本主義ならぬ「プライド主義」ともいうべきシステムが成立したのです。

 しかし人間はしばしば目的と手段を転倒する、というカン違いをします。「社会の維持・発展」自体が目的となり「人間のための社会」より「社会のための人間」が求められるようになってしまった現代においては、このシステムがもはや多くの人を幸せにするために有効に機能しないのは明らかです。

 なんの目的意識もないまま、社会が命ずるから、周りの者がそうするからという理由であくせく働いて札束をため込んだ人が得られるのは幸せではなく、おそらく空しさといら立ちだけではないでしょうか。

 「私は社会のために苦しい思いをしたのだ、苦労しない人間を幸せにするものか」

 引きこもりのみならず、イジメ、教師による体罰、児童虐待、自殺、過労死、社会への怨恨を動機とする凶悪犯罪など、多くの悲劇の根底にこの「プライド主義社会」というシステムが生み出した心の歪みがあるように私には思えてなりません。

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●文通番号9-05  独創性開発

色眼鏡君(AT君) 〔東京都 男 26歳〕

 私は自分という存在理由において、たくさんの違和感や孤独感を抱いています。どうして自分の顔に自信がもてないのか、決然とした意志や自我などをあやふやにしてしまいがちでいます。体裁や見栄を利用して、自分を相当な人間であると気取り言葉を用いては、それで自分をフォロウしています。

 〈僕はダメな奴だ〉……と素直に自分を認められず、他の人には気づかないような独創的な才能はないかと、常に日頃から自分自身を分析しています。

 この不登校情報センターに所属をしてから数か月間で、いくつかの刺激もありました。あとどれぐらいまで関係性が保てるのかは、明確ではありません。現在、ある学習塾にも所属をしています。

 今のところは、何も目標としてるものはなく、ただ学生としての体裁だけにしがみついています。きっと「自分なんて世間で認められるはずもない」。そのようにシャットアウトをしてしまいます。遊ぶことの楽しさや、スポーツで汗をかいたり、また働いて稼ぐことの充実感。それらの生き甲斐は、自分にとっては全くと言ってもいいほどに実感が持てません。頭で考えてばかりでなかなか手も足も出せずに、幻想の世界を思い描く時間が多くあるのです。

 『源氏物語』最終巻

 春の夜の 夢の浮き橋 とだえして

 峰に分かるる 横雲の空

 見渡せば 花も紅葉も なかりけり

 浦の苫屋の 秋の夕ぐれ

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●2001年9月1日  第8号

◆ひきコミ・第8号

●文通・・・「モノ社会の貧しき「自立」」/「ある日の日記より」/「けっこう筆まめです」/「四月」/「家も学校も辛かった」/他・27通

●連載・・・「子どものころ(6)」

●体験手記「私の物語(1)」

●五十田猛/的場博之「引きこもりの理解と対応」

◇心の手紙交流館(編集) 

◇株式会社子どもと教育社(発行)

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●文通番号8-27  家も学校も辛かった

スピカ 〔埼玉県上尾市 女 29歳 家事手伝い・内職〕

家を出る口実に制服を着る、家を出る。教室のドアを開ける、言い知れぬ不安。息苦しかった。空気の壁みたいな圧力を感じた。「そうかなぁ? そんなことないけどねぇ」。キョトンとして誰かが言った。―あなたはそれを感じないのね、幸せな人。教室に入れない、学校にいたくない。家に帰れない。街をさまよう。

友人に大量の手紙を書いた、内容に対する返事は一言もなかった。―私ってその程度なのね。いない間に私物が使われた、犯人は友人の一人だった。事後報告もなかった。

―もういいや。決別の決心がついた、学校なんてしがみつく必要のない所。ただ資格だけあればいい、身分が欲しいだけ。

機械的に出される食事、監視と中傷の食卓。母の料理を食べたくなかった。食卓が苦痛、弁当も捨てた。

「制服を着て家を出るということは、学校に行きたい気持ちはあるんだね!」。母が言った。

―そんなんじゃないや! 一日中パジャマで過ごした。「どんな気持ちで買ってやったと思ってんだ!!」。制服を床にたたきつける母、ボタンがかけた。―どんな気持ちで着てると思ってんだ!? 切り刻んで、捨てた。「近所でなんて言われてるか知ってるか!? 守ってやってんだぞ!」。母が怒鳴った。―子どもが親に守られるのは当然の権利だと思ってた、違うの? 「お前も辛かろうから生んだ責任で殺してやる」、階段を引きずり下ろされた。

“生んだ責任”と言うなら、その前にして欲しいことがある。理解できなくてもいい、せめて「そんな苦しみもあるのだ」と知って欲しい。「そんなもの気合で跳ね返せ!」。それのできる人とできない人がいる、私にはできなかった。だからといってそれが劣った人間だろうか? ―そういうのも個性って言うんじゃないの? 

父への憎しみを意識したのは小学1年だった……。「親の顔に泥を塗った」と言われたが、父のせいで人前で恥をかいたことは多々あった。些細なことで怒鳴りつける、誰に対しても横柄、自己過大評価。「人の形をした動物、乞食、バテイ」etc、感心する程のボキャブラリー。言い返せば「“角が立つ”と言って言葉に気をつけろ!!」。―自分だって、角どころか刺も毒もあるじゃないか! 崩壊した“家父長制”への憧れ? ……時々起こる殺してやりたい発作、心臓を一突き。―背中からでも場所はわかる、私にはそれが出来る。それがわかった時、体が震えた。めまいがした、意識が遠のいた……。気持ちの高ぶりが押さえられなくて、手首を切った。

子どもがその家の子になるまで、親には3回の選択のチャンスがある。

1、子どもを作るか作らないか、

2、その子を生むか生まないか、

3、自分(たち)で育てるか育てないか。そうやって子どもはその家の子になる……。

子どもがいる=親=エライ、とはどうしても思えない。子どもがいなければ「親だ!」と言って威張ることもできないのだから。

ただそのままを受けとめて欲しかった…。監視・干渉・無関心。悲しかった、苦しかった。八方ふさがり、絶望……。登校拒否・引きこもり、「したくても親が許さなかった」とよく聞く。―親に許された訳じゃない!

安心できる場所が欲しい、信用できる人が欲しい。人がこわい。―私を見て、見ないで。

わからない。

甘え方がわからない。愛し方がわからない。“愛され方がわからない”。本当の苦しみはなかなか口にできない。

ほんの少し休憩するだけのつもりだった。こんなに長くなるなんて、こんなに辛くなるなんて……。例えば深い穴に落ちたようなもの。真っ暗でどこにもつかまる所がない。

―助けて!。何度も叫んでやっと誰かが手を差し伸べてくれる。少しずつ少しずつ、穴をはい上がる。もう少し、あと一歩……。やっと縁に手がかかったところで「もういいね」。

―えっ、行っちゃうの? ちょっと待って、もう少しそこにいてよ!

……ずっとそんな感じだった。やっとかけた手は不十分、せめて少しでも出られるまで。

―お願い、行かないで!!

やっと出られてもまた外は暗闇。―見えないよ、わからないよ!

☆ ☆ ☆

●文通番号8-23  四月

シホ 〔滋賀県近江八幡市 女 26歳 無職〕

四月                                      

死の匂い

花の風の香りの

甘美はゆっくり指先でひねり潰し

四月

紫煙たなびく

まぼろしだらけ

漂う霧中にむんと満ちて吸い込み

ピュルルと夜 外を

鳥の飛ぶ

遠くしんとしずまる森

ひゅうと鼻の奥が

音をたてたよ

四月の匂いに

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●文通番号8-21  けっこう筆まめです

パンダ 〔三重県員弁郡 女 26歳 家事手伝い〕

 こんにちは、初めまして!

 三重のパンダです。26歳です。

 幼い頃から、真面目でいい子を続けてきました。中2の時、病気になりました。不眠症と、そううつ病です。未だに病院通ってて、薬なしでは、いられないし、寝ることさえも出来ません。

 家に閉じこもっていることがほとんどで、本を読んだり音楽を聞いたりしています。

 誰か私と文通して下さい。けっこう筆まめな私です。でも、まだ家にパソコンがないので、80円切手貼って送って下さい。心許せる友達欲しいです。

 高校は、通信制で、8年かけて卒業しました。働いてた時も一時ありましたが、今は家事手伝いです。何かしようと思うとすごくキンチョウして何も出来ません。

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●文通番号8-09  ある日の日記より

とべないホタル 〔石川県河北郡 女 27歳〕

 朝、雨の音で目覚めた。パジャマのまま、窓の側に行きカーテンを思いっきり開け、一杯のホットコーヒーを飲みながらボーと外の風景を眺めた。

 無心で心が空っぽになり、ただひたすら雨の音に耳を傾ける。そんな何げない一時が淋しい私の心の空洞をうめ、優しく包んでくれる。ぬくもりで一杯にしてくれる。そして雨の音が一人じゃないよ。そのままの貴女で十分素敵だよって、語りかけてくる気がした。

 この季節は人恋しい。ロマンチックな季節。しとしとと降る雨の音は、嫌なこと悩みを全部流し、心の掃除をしてくれる。いやしの音、静かな時の流れのここちよいメロディ。

 貴女は、今頃何をしていますか? 仕事場へ向かう途中で車を走らせている時? 同じ季節を過ごし何を思い、何を感じているの? 元気ですか?

 この5年間私の心の住人となり、貴女に語りかけ、いろんな出来事を一緒に過ごして来たね。貴女がいたから、貴女と巡り会ったからこそ、私がここにあるとそう心から思える私になった。会いたい、本当は今すぐ会い、顔が見たい、だけど……。

 少しはこんな私も、5年前より成長したのかなあ。いま私は大人への階段を一歩一歩登り始めている。

 貴女も時々、私と過ごした時を懐かしく思い出してくれる時もあるのかなぁ、いつかどこかで偶然笑顔で会えるといいね。

 懐かしさと切なさで涙になる。

 思い出の一ページへ

 雨の中傘をさし、散歩すると、アジサイの花が私の心をとらえた。七変化に、移り気なミステリアスな花。その時、その時にいろんな色に染まり、表情を変え私の心を魅了する。不思議な花、雨がとてもお似合い貴女は自分の気持ちに素直で正直で、小さな自己主張、自己アピールしている。その傍らでかたつむりがアジサイの葉っぱに寄りそっている。

 二人は仲よしで一番の安心な居場所。私と目が合うと恥ずかしそうに自分の大きな殻に顔を隠してしまう。

 道ばたにカエルがゲロゲロと合唱している。みんな与えられた命を一生懸命に輝かせているんだね。

 雨の日が、何日も続くとだんだん嫌になって憂うつになる。気分が重くなってしまう。

 人の心って本当に気まぐれで我がままだよねぇ。でも物事は考えよう。気持ちの持ちよう。お日様のありがたさがわかる。梅雨があけると、もう少しで私の大好きな季節がやって来る。元気でね。

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●文通番号8-08  モノ社会の貧しき「自立」

ミズキ 〔東京都八王子市 男 37歳 無職〕

 去年の秋にあるテレビ番組で、引きこもりの若者が自宅から文字通り引きずり出され、施設に送られる様子が放映されました。

 「五体満足な若者が仕事にも就かずに自宅にこもっているなど許されるべきことではない」という旧来の常識的感覚からすれば、これも彼に対する当然の処置なのでしょう。

 しかし私は、いかにこの社会において「精神」というものに対する理解が立ち遅れているかを見せつけられたような気がしました。「身体」と同様われわれの「精神」も重要かつ複雑なものであり、そこに抱える問題も人によりさまざまなはずです。体に障害があって歩くことができない人から車椅子や松葉杖を取り上げ無理やり歩かせようとする施設など存在するのでしょうか。

 また一人前の社会人の条件としてしばしば「自立」の重要性が強調され、私のように学齢期を過ぎて引きこもり生活を送る者に対するプレッシャーとなっていますが、もし自力で金を稼いで生活することが自立の必須条件であるなら、体に障害があり金を稼ぐ能力のない人は自立できないことになります。

 しかし彼らを寄生虫扱いすることはこの社会では少なくとも表立っては許されていません。ここも「身体」と「精神」に対する認識のアンバランスが感じられます。

 もっとも「障害はとは何か」「引きこもりは障害か」といった問題についてはいまだ議論の余地もあり、今後の研究や価値観の変化に期待をかけながら気長に待つしかないのかもしれません。

 ともあれこのように身体や経済といった人間や生活の物質的側面ばかりを強調する風潮が、一方で「引きこもりイコール強制すべき反社会的行為」という主張を生み、一方では「自立」観そのものを歪めているという事実は確かに存在するのです。

 そもそも自立とはなんでしょうか。「モノ・カネ社会」に適応し、物質的に自立した人は全て精神的にも自立を遂げているのでしょうか。

 私の考えでは答えは「ノー」です。

「自分で稼いだ金で生きる」ことを物質的自立とすれば、精神的自立とはまさに「私は自分の自由と責任の下に行動する」という意識を持つことに他なりません。

 「私は自分のために金を稼いでいる」という人も「たとえ貧乏しても働きたくないから働かない」という人も精神的自立という点では等しいのです。

 一方、自分で判断し選択する自由と責任を放棄し、「人間は社会のために働くべきだ」という押しつけられたフィクションを唯一の真理のごとく押し頂、イヤイヤ働いてたまったフラストレーションを働かない者への非難・攻撃という形で発散する。そんな「模範的社会人」もいます。

 たとえ何億円稼ごうと、何十人の家族を養おうとこのような人が精神的な自立とはほぼ遠い状態にあることはいうまでもありません。

 問題は「何のために働いて金を稼ぐか」にとどまりません。社会のためにイヤイヤ勉強した人は(教育者を含め)頭の悪い人をいじめ、社会のために「正しい生き方」を自分に課す人はしばしば偏狭な正義を振りかざして他人を責めます。

 思えば精神的に自立を遂げた人間などこのモノカネ本位のプライド主義社会にとっては単なる邪魔者に過ぎないのではないでしょうか。

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●2001年8月1日  第7号

◆ひきコミ・第7号

●文通・・・「人間社会から引きこもり」/「働かざる者食うべからず」/「「自立的引きこもり者」宣言」/他・38通

●連載・・・「子どものころ(5)」

●体験手記「履歴書には書けない宝物(下)」

●五十田猛「虐待の周縁にある躾」

◇心の手紙交流館(編集)  

◇株式会社子どもと教育社(発行)

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