日本の特殊性を明瞭にすることと天皇制の肯定は同じではない

最近読んだ本のことを続けてもうひとつ書きましょう。
吉田孝『日本の誕生』(岩波新書、1997年)を読みました。
日本の古代史の研究が精密にシャープに実証されているのを実感させてくれる名著であると思います。
注目したいのは「あとがき」の冒頭部分です。「やはり日本は特殊な国だということにならないか。その点では皇国史観と同じではないか」―この本の草稿を読んだ一人から出た感想だそうです。
この言葉を見て思い出すことがあります。このたびの引越しの折に処分した本に『風土』(和辻哲郎)があり、読んだことがあります。『風土』も日本の特殊性を述べ、それが天皇制の存在を根拠付けるものとして批判的な扱いを受けたことを知りました。このあとがきと似ていると思いました。
仮にそれが天皇制を根拠付けるとしても、このような扱い方はなじまないでしょう。なぜなら日本には天皇制が続いてきた現実があるからです。その賛否と存在理由を明らかにすることは同じではありません。日本に原子力発電が普及してきた事実を研究することと、その存在の賛否は同じではないのと同じ論理です。

見出しのつけ方を変えようと試みています

「センター便り」と「新着・更新」の見出しのつけ方を変えます。
これは『ネットの炎上力』(蜷川真夫、文春新書、2010年)を読んでそうしようと考えたことです。この本はそんなことばかり書いたものではなく、J-CASTニュースを立ち上げた著者の実践的な内容を書いたものです。いろいろ学ぶ点は多いです。見出しのつけ方を変えたのもその一つです。

ネットというか情報社会を取り上げた本で最近読んだものに『キュレーションの時代』(佐々木俊尚、ちくま新書、2011年)もあります。佐々木俊尚さんは私にネットの重要さを具体的に教えてくれた人になります。『グーグル』という本で、2009年ころに読み、もう手元にはありません。それ以降、ネットに関するものを20冊近くは読みました。
それから4年ぐらい経ちます。「4年しか経っていない」というべきか「4年も経っている」というべきか困るほどですが、ネットは重宝しています。