神経エネルギーに関する追加的なこと

金子隆芳『色彩の科学』ノートで私は引用を省いたところがあります。「第3章 ヘルムホルツ三色説」の第1節「感覚神経の特殊エネルギー説」の一部です。
「ニュートンは…眼に入った光は視神経を波動のような形で伝わって行き、大脳のセンソリウムに到って光や色の感覚になると考えた。…」(37ページ)「この問題について一つの解決を示したのが、ヨハネス・ミュラー(1801-58)の感覚神経特殊エネルギー説であった。ミュラーによると、視神経とか聴神経といった感覚神経を伝わるのは、もはや光や音の波動のような物理的エネルギー、あるいはそれに類似したものではない。神経には神経固有のエネルギーがある。
そのような神経エネルギーへの変換は、視覚の場合は眼の網膜で行われると考えられる。ミュラーは何を考えたか知らないが、現代の神経生理学の定説によれば、神経の活動は電気的パルス説である」(38ページ)。

引用は続きますが一休みをして、註と私見を入れます。
*センソリウムとは、「大脳の感覚中枢で、そこで感覚が意識になる」(22ページ)。
ミューラー説を『色彩の科学』も現代の神経生理学の定説も否定しています。私が「精神エネルギーの消費と肉体エネルギーの消費には違いはなく…」といったのはこの否定説によります。しかし「ミュラーは何を考えたか知らないが」といいますが、意外に意表をつくことを考えていたのかもしれません。

「その活動がどのように『特殊』かというと、その原因が何であれ、例えば視覚神経の活動は視覚体験しか起こさない、聴覚神経の活動は聴覚体験しか起こさない、ということである。もし眼を電気で刺激しても、その電気が視神経を伝わるわけでもないし、ましてや『電気』を見るわけでもない。私たちは光を見るだけである。聴神経だったら音を聴くのである」(38ページ)。
この後、次の文章を私はノートしています。「特殊エネルギーの種類は感覚の種類だけある、例えば視、聴、味、臭、触の五種類としておこう。そして、『それしかない』。感覚神経のそういう特殊エネルギーの限定のゆえに、われわれは外の物理的世界がどうあれ、天から与えられた神経エネルギーの五つの様相でしか世界を知ることができない」(39ページ)。
ヘルムホルツはミューラーの弟子の1人であったが、『生命といえども物理化学的過程であるから、物理化学的法則で説明すべき』として「筋肉の代謝の問題からエネルギー保存則をたてた(1847)。人間も熱機関と同じだということである。こういう人間観だからミューラーの生気論を批判するのも当然である」(40ページ)。
『色彩の科学』はこのようにミューラーに代わるヘルムホルツ説を紹介しました。私はこれを受け入れます。それでもミューラー説の未知の部分も知りたいし、「感覚神経のそういう特殊エネルギー」の研究により現代の神経生理学に新たな意見表明はないかと気にしているのです。
16日の「精神エネルギーの消費と筋肉エネルギーの消費は違うか?」で書いた次の2点はそれを意図的なテーマにするものです。
(1)筋肉の代謝とは筋肉を動かすエネルギーと同じに取っていいことなのか。
(2)パルス波の1つひとつのエネルギー量は同じとしても、精神エネルギーの消費と肉体エネルギーの消費の問題を扱ったことにはならないのです。

「小難しいことを書いてわからない」という意見を聞きましたので、しばらくはこの問題はブログから離すことにします。

処女開眼者から連想する引きこもり経験者の3つのこと

次に中途開眼者(処女開眼者)から連想することにいきます。
まず金子隆芳『色彩の科学』の著述をみます。「失明の原因が角膜とか水晶体など、眼の光学系にある場合は、これを摘出するなり移植交換するなりして、光を回復する可能性がある。幼くして失明した人のそういう手術が処女開眼手術である」(128ページ)。
処女開眼手術の実例や術後の追跡はきわめて少ないが1例だけ挙げています。著者はこれに詳しい鳥居修晃氏の談を引用しています。「形を見るにしてもどうしても触覚に頼ろうとし、手を使わないように言うと、今度は唇が出てしまう。つまり眼を使おうとしない。その人にとってはすでに触覚空間世界が出来上がっており、その世界に生活している。正常者は視覚情報だとか色情報だとかおおげさにいうが、視覚情報やまして色情報に、正常者が考えるほど普遍的な感覚価値はないというべきかもしれない。処女開眼者に色の訓練をするという仕業は、紫外線を見ることを知らない、あるいは見ようともしない人間に、無理やり紫外線を見る訓練をするようなものである」(130ページ)。
中途視覚障害者(中途失明者)の言葉がありますので、処女開眼者の言葉を中途視覚獲得者という意味で中途開眼者と言うことにします。

さて中途開眼者になぞらえて考えれば、長期の引きこもり経験者の社会参加とは「人生の中途から社会に参入訓練をするようなもの」です。それは中途開眼者と比べると次のようになりませんか。
第一に、彼ら彼女らにはそれぞれ慣れ親しんだ生活世界があります。これを無視することはできません。それはむしろ役立てる方向で取り入れることになろうかと思います。
第二に、正常者が生活している社会そのものを普遍的な生活世界という価値から相対化する必要があります。
第三は、長期の引きこもり経験者の社会参加とは、適応中心ではなく、本人の適性を見つけ、生かし、伸ばす…そういう方法にならざるを得ません。それは負の方向ではなく、社会全体を正の方向に向かわせるベクトルになると考えたいのです。

色覚異常は発達障害に関係するかどうか不明

先の理由で金子隆芳『色彩の科学』(岩波新書、1988年)を読み返すハメになりました。主目的の神経エネルギーとは別に副産物を2つ思いつきました。並べるとこうなります。
(1)色覚異常について。
(2)処女開眼者、または中途開眼者から連想すること。
(3)神経エネルギーに関する追加的なこと。

まず(1)の色覚異常を発達障害とどう関係させて考えるのか。これをあまり追求してこなかったと思います。ついでですが斜視も同様です。
色覚異常と斜視が、発達障害とどの程度関係するのか。予断を許しませんが関係はあると予測しています(Center:2008年5月ー味覚と色覚異常に関するとっぴな仮説)。
私が「引きこもり経験者」として関わった110名のうち、色覚異常の人は3名以上、斜視の人は4名以上います。「以上」というのは、一人ひとりから聞き取ったわけではなく、偶然にそれを知ったためです(「Center:2008年5月ー対人関係支援百人の実例と支援対象の現状」の時点で110名)。
* 日本では石原表という色覚異常を識別する方法が取り入れられ、色覚異常は早期に発見されます。石原表は「国際的に認められている優れた検査である。多勢の人から異常者を見つけ出すには適しているが、過敏過ぎて一般用としては問題がなくはない」(114ページ)。

色覚異常も斜視も1名は私自身です。そうすると「引きこもり」というよりも「アスペルガー的な発達障害」がベースになるかもしれません。斜視のうち1名は子ども時代に手術により矯正をしています。
さて110名のうちの3名(2.7%)の色覚異常、4名(3.6%)の斜視をどう見るのかです。人口比におけるこの%は有意的に高いのでしょうか。これは不確実な数値であって判断材料としては十分ではない。
Wikipedia日本語版「色覚異常」にはこうある。
*1型色覚と2型色覚=「赤系統〜緑系統の色弁別に困難が生じるが、 正常色覚とほぼ同程度の弁別能を持つ者も多い」日本では男性約22人に1人、女性約600人に1人。色覚異常の大多数を占めます。
*3型色覚=「正常色覚とほとんど変わらない」日本では数万人に1人。
*1色覚は「色は識別できないが視力は正常」と「色が識別できず視力も低い」の2つに分けられ、日本では数万人に1人という。
「日本人では男性の4.50%、女性の0.165%が先天赤緑色覚異常で、日本全体では約290万人が存在する。白人男性では約8%が先天赤緑色覚異常であるとされる」
こう見ると、私が関わり聞いた範囲では引きこもり経験者のなかでは「出現頻度が高い」という有意な状態は見出せません。「発達障害においては色覚以上や斜視の割合は一般よりも高い」という推論は当たっていません。この意見も間違っていたのです。しかし、本格的に調べると何かが出てくるかもしれません。