処女開眼者から連想する引きこもり経験者の3つのこと

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次に中途開眼者(処女開眼者)から連想することにいきます。
まず金子隆芳『色彩の科学』の著述をみます。「失明の原因が角膜とか水晶体など、眼の光学系にある場合は、これを摘出するなり移植交換するなりして、光を回復する可能性がある。幼くして失明した人のそういう手術が処女開眼手術である」(128ページ)。
処女開眼手術の実例や術後の追跡はきわめて少ないが1例だけ挙げています。著者はこれに詳しい鳥居修晃氏の談を引用しています。「形を見るにしてもどうしても触覚に頼ろうとし、手を使わないように言うと、今度は唇が出てしまう。つまり眼を使おうとしない。その人にとってはすでに触覚空間世界が出来上がっており、その世界に生活している。正常者は視覚情報だとか色情報だとかおおげさにいうが、視覚情報やまして色情報に、正常者が考えるほど普遍的な感覚価値はないというべきかもしれない。処女開眼者に色の訓練をするという仕業は、紫外線を見ることを知らない、あるいは見ようともしない人間に、無理やり紫外線を見る訓練をするようなものである」(130ページ)。
中途視覚障害者(中途失明者)の言葉がありますので、処女開眼者の言葉を中途視覚獲得者という意味で中途開眼者と言うことにします。

さて中途開眼者になぞらえて考えれば、長期の引きこもり経験者の社会参加とは「人生の中途から社会に参入訓練をするようなもの」です。それは中途開眼者と比べると次のようになりませんか。
第一に、彼ら彼女らにはそれぞれ慣れ親しんだ生活世界があります。これを無視することはできません。それはむしろ役立てる方向で取り入れることになろうかと思います。
第二に、正常者が生活している社会そのものを普遍的な生活世界という価値から相対化する必要があります。
第三は、長期の引きこもり経験者の社会参加とは、適応中心ではなく、本人の適性を見つけ、生かし、伸ばす…そういう方法にならざるを得ません。それは負の方向ではなく、社会全体を正の方向に向かわせるベクトルになると考えたいのです。

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