いじめ電話相談のネット

いじめ電話相談ネットワーク」というのがあります。
2006年11月17日に愛知県の木村茂司さん、大河内祥晴さんの呼びかけにより生まれたものです。
当初から不登校情報センターは参加していましたが、開店休場状態と思っていました。
よく考えると、ネット上のここを検索して不登校情報センターに連絡をしてきたのではないかと思えるケースがいくつか思い出されます。必ずしも完全休業ではなかったようです。
滋賀県大津市のいじめ事件により、このサイトが利用されていることがわかりました。
今日はあるテレビ局のプロダクションから連絡があり改めて調べてみました。
うっかりしていましたが、このページをWikiシステムに移行していませんでした。急いでWikiへ移行しました
10団体がそれぞれの条件により協力しています。

いじめ自殺・殺人の追加

大津のいじめ自殺の関して「いじめ自殺? いじめ殺人かも」を書いたところ、いくつかのツイートが届きました。事件の詳しい事情はわかりませんが、ツイートでは校長と担任教師が名指しされ「懲戒免職にしよう」とか「警察自体が被害届を受理しなかった」事情を教えられました。
必要と思うことは事件の全容を明らかにすることですし、願うところはいじめがなくなることです。懲戒免職云々は事情をよく知らないなかではにわかに賛同できません。

このいじめ事件が多くの国民に訴えていることは、高みの見物を促していることとは思いません。誰かを事件の責任者としてスケープゴートにすることでもないでしょう。そうしたからといって亡くなった生徒は戻ってこないし、いじめが減るとは思えません。
自分の子ども、自分の孫のいる学校でいじめ事件が生まれたとき、学校の教師がそれに真剣に取り組めるのかを考えてみてください。
クラスの生徒数は何人なのか。一般に生徒数が多くなると担任の目が届きにくくなります。20名以下の生徒数でないと教育活動の全体がうまくいかなくなりやすいといわれます。
教師間の協力も必要な体勢の一つです。孤立している担任教師が一人だけ勇気をもって何かをできる可能性は低くなります。担任教師にスーパーマン的な勇気や力量を求めるのは、非現実的です。学校の同僚職員は支えになってくれるのか、地域の人たちは応援してくれるのか、そういう学校になっているのかを見直す機会ではないかと思います。
教師を管理的に締め付けていくと反対の作用をします。担任教師は子どもの方に目を向けるのではなく、管理職や教育委員会の方に目を向けていくからです。学校は子どもが第一です。このような身近な学校の問題に目を向けないのであれば、高みの見物的論評は無責任で、役に立ちません。

この学校の地域性はどうでしょうか。警察自体が被害届を受理しない地域環境で、学校と担任教師がどこまでできるのか。そういうことにも考えを及ぼしてほしいものです。いえ確かにいじめを目撃していたとか、実際は知っていたとかいろいろあるようですが、身近にいる人しかわからないことです。
むしろ勇気ある教師が、何かのことで立ち上がったとき、どれだけの人がそれを応援してくれるのか。
そういう支えが期待できないなかでは、勇気ある教師も動けないかもしれません。警察が受理しないものを学級担任がどれだけ動けるのですか? 
いや事件の起きる前のいじめに対してどうするのかを問題にしているのでしょう。そこでもある程度は同じです。明確なことは学級担任に全てを負わせるのは、いじめ対策としても貧弱ということです。ここは大事なところです。いじめ対策を教師個人の誠実さや勇気に求めているのは無策と同じです。
普通の良識がある教師が、ことを感じたときにスーパーマン的勇気ではなく、常識的に対処できる支援体制をつくるべきではないのか。私の関心はこのような方面に向かいます。

校長や教師や教育委員会や警察署は非難対象ではないと断じているわけではありませんが、ほとんど何も知らないなかでは言うべきことはないのです。
不登校情報センターの一員としては、生徒がこのような状況でいれは「学校を休みなさい」といってあげたいことは確かです。教育委員会がそういうならば、それを補充する体制が求められます。十分ではないかもしれませんが、家庭訪問の体制(子どもが受け入れることが条件です)、学習塾の費用負担などを考えて相当だと思います。学校の立場としてそれがいえないのであれば、安全対策をはかって当然になります。私にはそういうことはできませんが、「学校を休みなさい」とはいえます。心身の重大な危険を負うために学校へ行くことは考えられないことです。これは最低限のことです。

いじめ自殺? いじめ殺人かも

大津市における、中学生のいじめ自殺事件が大きく報道されています。
その報道の中に次の視点を持つものがほしいものです。
(1)被害を受けて亡くなった少年の仮の代弁者たろうとするもの。
(2)子どもたちのなかで、いじめ行為が広がらないのに役立つこと。
中学校や教育委員会の隠蔽体質、いじめの方法のひどさ、が報道されています。
私が関心を持つようになったのはこれらの報道によるものですから、その意味は少なからずあると認めないわけにはいきません。報道姿勢に同一の視点を求めるものでもありません。いろいろな面から可能な範囲での報道を願います。

私は以前にいじめ自殺をしたという子どもの親から話しを聞く機会がありました。今回の報道と同じく学校の緘口令による事件の隠蔽体質に親が苦しめられ、憤っていました。私の感情移入はその親の気持ちへのものでした。亡くなった子どもへの思いは後回しになった感じが残ったままです。
亡くなった子どものことは確かにわかりようがなく、その細部を報道することは適切ではないのかもしれません。ですがその部分への関心がないことは中心を避けた関心ではないかと思います。いじめのために亡くなった子どもへの関心は、感情的なものであって当然です。それを優先すべきです。そのうえで理性的、制度的な問題にしていかなくてはならないと思います。

報道によると「いじめ自殺」とされており、いじめがあり、それによる自殺となります。そうするとこれは単純な自殺ではありません。もしかしたら殺人になるかもしれません。殺人に至らしめたいじめということかもしれません。法律的な判断は私にはできませんが想定してしまうのです。
これが少年事件でなければ、いきなり殺人事件として捜査対象になるのではないでしょうか。そういう問題と考えてもいいと思います。こういうと誤解を与えそうですが、少年事件であることを否定する気はありません。殺人事件の可能性がある捜査対象として、担当する公的なセクションが当たるべきであろうと思います。未成年の問題はその後のことと考えたいのです。
加害者の少年にはそのことを自覚してもらわなくてはなりません。いじめとはそういう行為であることをこの事件報道を通して広く知らせる機会になります。ここがいじめ防止と亡くなった少年の無念さの原点になると私は考えるからです。
死に至らなくてもいじめの後遺症により、その後の人生に重大な支障をきたしている人は少なくありません。20年、30年たっても人との接触さえできない人がいます。そういう人たちの無念さには、いじめた側には何の記憶も自覚もないことが挙げられます。目的的な報道の良し悪しは別として、上の視点による報道もあってほしいと願います。

親からの手紙=いじめの後遺症

先日いただきました手紙による連絡の一部です。

娘は学校に行きたいといっていましたが、学校でいろいろなことがあり、いじめもありました。
口数が少ない娘は、見当違いのことなのにと思っていても、それに反論もできずにいました。
先生からの助けもなく、そのうちウツのようになって学校には行かなくなりました。
引きこもりの生活が長く続いてきました。
学校時代からは10年以上が過ぎています。
あるとき思い切って精神科にいったところ統合失調症の疑いがあるといわれ、それからときどきこの病院に通っています。
まずは病気を治すことに専念することにしています。
学校が大好きな子だったので親としてはやりきれない気持ちです。
私たちは年金生活になってしまいました。
この先の娘にどうすればいいのか不安です。

何かとても苦しく、読んでいる私自身が怒りを忍んでいく感じがしています。
子ども時代の大事さを思わないではおれません。
この病院への通院ではたしていいかという気持ちもわいています。
切ないですね。

いじめに取り組む会への返事

川崎市で「青少年育成連合会」の理事長としていじめ防止に取り組んでいる横田正弘さんから、活動報告と協力の連絡が届きました。それへの返事をいたしました。

「横田正弘さん、お久しぶりです。
不登校情報センターの松田武己です。福田正俊さんと一緒にいじめ問題に取り組んでから20年が過ぎました。 いじめの件数はそれなりの波はありますが、ズーッと続いています。
川崎での篠原真矢君のケースはほとんど何も知らずに来ました。少年らしい正義感にあふれる勇気ある中学生です。社会として、大人として申し訳ない気持ちです。
子どもの問題は大人社会に問題があり、それが際立って表れてしまうように思います。
その意味では根本的には大人社会の問題を何とかしなくてはならないはずですが、個人としても、不登校情報センターという団体としてもそういうことにはほとんど力を発揮できないでいます。
同時に子どもたちのいじめには(大人社会の問題の反映だからといって後回しにはできず)特別に取り上げて対処しないと、とんでもないことになってしまいます。
有名人を含めて多くの人たちがいじめをなくそうと呼びかけていますが、そういうことだけでは子どもの気持ちを大きく動かすことにはならないのではないか。ある部分の子どもたちは私たちの思いのはるか先にいます。
私には置かれた条件の中でどういう取り組みをすればいいのかはよくわかりません。
いじめを受けている子の親からときどき電話相談があります。
いじめ後遺症ともいえる高齢者(なかには五十代になりなお社会に入れない人も)からも対処法はどうすればいいのか、などの相談が入ります。
それぞれに応じたことはお返事していますが、決定打にはなっていません。
いずれにしても事態が発生した後のことです。事態の進行中のことはその情報自体が届きません。横田さんのところでは進行形の事態が届くように思います。
そういうときの対処法、そういう事態の進行中の把握方法ももしかしたらご存知なのかもしれません。
想像ですが、私と横田さんの教育観は必ずしも近くはないかもしれません。しかし、子どものことがとりわけ好きで、子どもたちが未来の日本であることを信じて、最善の状態をつくりたいという思いは共通しているものと思わずにはいられません。
これからも何かご教示いただければさいわいです。
可能な協力はするつもりでいます。
2012年3月14日    松田武己」

〔福田正俊さんはペンネーム・三田大作で『いじめで子どもが死なないために』を出版し、私はその出版に協力しました〕。

いじめ後遺症が問われる時代

子ども時代にひどいいじめにあい、学校には行けなくなり、仕事にも就けず、いままで生きてきたという人から電話を受けました。何歳ですかと聞くと「50代です」と答えた男性です。
いじめにより自分の人生がこうなってしまったと証明されるなら、ある人が特別の応援をしようといっている、どうしたらいいものか。これが相談電話の趣旨です。
おそらくは昨年10月5日の産経新聞に掲載された私の言葉、またはそのネット上の記事を見て電話をしてきたのでしょう。
なんとも気の毒で残酷なことです。はたして証明できるでしょうか。どうすれば証明したことになるのでしょうか。その思いが先にたちます。
子ども時代の重大ないじめは、その後の不登校の原因になりますし、社会に入っていけない、働けない事態に続きていきます。こういう人がいることは間違いありません。電話をかけてきた人はそういう人であると確信できます。
ですが証明となると難しいのです。
いじめをしていた当事者にその事実を話してもらえるのか。どこまでそれを覚えているのか。たとえば傷を負って病院にいった記録がある、物を奪われて警察に届けた記録がある、教育相談所に相談記録がある…まずはそのへんを考えます。
それでいじめがあったと証明されたとしましょう。しかしその次に、その後の人生で社会とのつながりをもてない、働くことができないという証明をしていかなくてはなりません。ここもまた難しいのです。
たとえば医療機関に通院または入院した記録がある、そこのカルテに身体状況、精神状況の様子が書かれている…そういうことが必要です。

特別の応援をしようという人がどのような意図を持っているのかはわかりませんが、いっけん無理難題のようにも思います。もしかしたらこの人に一念発起を期待しているのかもしれません。
とはいえ、戦前の朝鮮人の強制労働、戦後のレッドパージなどが裁判の対象になっています。多くの関係者・協力者により記録が探し出されています。そういうことを考えるといじめの後遺症もそのような対象になりうる、そんな時代が近づいていると思います。
いじめはいろいろな時代に、全国各地に発生しています。社会問題ですが多数は子どもの中の現象です。そこに政治的・社会的背景がどれほど影響しているのかは計測しがたい面もあります。むしろ社会人になってからのいじめの方が先行して俎上に上るのかもしれません。
それらを超えて、後遺症自体が社会的・法律的に問題にされる時期が来始めた、それを予感させる電話でした。

10月5日産経新聞の記事は文科省が20歳前後の人を対象に「いじめ後遺症」を調査することに関して取材を受けたものです。このブログの関連記事はこちら。掲載された記事がネット上で探しにくくなっています。私の発言した部分を載せておきます。

「思春期に激しいいじめを受けた人の中には、人間に対する敵対心や憎悪の気持ちが生まれ、一生外に出られない人もいる」。東京都内でひきこもりの人たちの社会復帰を支援しているNPO(特定非営利活動)法人「不登校情報センター」(東京都葛飾区)の松田武己理事長はこう訴える。
松田理事長は相談に訪れた先、いじめ被害によって、中学卒業から何年も経過した後でも憎悪の気持ちが消えない人を目にしてきた。「いじめは被害者の人生を棒に振らせることもある」と指摘する。

敵対心と対人恐怖……新聞取材の印象

「敵対心・憎悪…癒えぬ心の傷」を見出しにする「産経新聞」10月5日号が届きました。
取材先の意見で紹介されているのは、不登校情報センター・松田武己のほかは、リーラの市川乙充さん、法政大学の尾木直樹さんです。文科省がいじめ後遺症を調査するのに関連した記事になります。

私の取材を受けた内容の一部が引用されていることになります。このような場合、ほとんどいつも話したことと引用されていることにズレを感じるものです。取材を受けた経験のある人なら多くが経験することでしょう。それを前提に取材を受けている面もありますし、それにより自分の考えや取り組んでいることの意味がわかることもあります。
今回は、「敵対心・憎悪…」という程度の強いことが引用されました。いじめられた人にとり「対人恐怖」が定着させられる点の影響が広いのですが、記者が選んだのは影響が深刻な程度になるほうです。しかし、私が話した範囲のことを限られた文字数の中では的確に表現されているという印象を持ちました。

いじめ“後遺症”新聞記事を見た人から電話

9月28日に書いた新聞取材「イジメの後遺症」ですが、10月5日の「産経新聞」の記事になったようです。どのように掲載されたのかは見ていませんのでわかりません。
夕方になってから新聞を読んだという人から電話が入りました。
そのうちの一人は40代に入った男性です。中学校のときにひどいいじめにあったことを強い憤りとともに話してくれました。
その話のなかで、印象に残ったことがいくつかあります。
(1)いじめという言葉のあいまいさです。いじめとされたものの内容は暴力による傷害、恐喝による物品や金銭の要求であり、私が“犯罪行為ですね”というと「そうです。いじめなんていうものではない」と答えた点。
(2)教員はそのことを知っていながらいじめる側の生徒とその親からの攻撃を怖れて、押し黙り、見てみぬ振りを続けていたこと。これがこの人の教員不信としていまもぬぐえないといいます。
(3)そして自分の親。公務員であった親もまた自分の子どもが怪我をして帰ってきている、その理由も話した、なのに何もしなかった。傷害として訴え出ることができたのではないか、それもしない自分の親を尊敬できなくなっている、ということです。
(4)「新聞を読んで何か思いましたか」という趣旨のことをいうと、自分で何かをしたい、子どもの時は周囲の大人たちは何もしなかった、それを取り返すために何かをしたい、と話されました。
(5)文科省の調査(不登校した生徒の追跡調査)にこの方は否定的でした。古いことを蒸し返される、それで何かいいことがあるのかというわけです。この点に私が同調しないのが、不満のようでした。気持ちはわかりますが、事実を知る上では調査の必要性も感じますので、見解の違いはやむをえません。

新聞取材「イジメの後遺症」

P新聞社の記者から電話取材がありました。テーマは「イジメの後遺症」です。「不登校情報センターのなかにイジメを受けそれで苦しんでいる人はいませんか」という質問から始まりました。当事者ではなく松田への取材です。その答えの私なりの要約をしておきます。

不登校や引きこもりの人の多くは、程度の差はありますがイジメ、嫌がらせ、排除、からかい…の対象となり、その経験があります。本人にとっていまの時点でそれがどう影響しているのかは一律ではありません。何かをきっかけに思い出すこともあります。

しかし、影響が一生の重荷となる人もいます。そういう人の多くはフリースペースには加われないのです。強い人間不信により人格的成長が阻まれます。自分に対しては自己否定感が根付いています。他の人に対しては警戒感、敵愾心、憎悪の感情がわいてきます。それでいて表面的には穏やかに見える人も少なくはありません。これらの感情的、心情的な組み合わせは極めて多様です。程度が相対的に少ない人がフリースペースなどで人と関わって自分なりの成長をとげ、社会と関わる力を身につけていきます。

イジメの影響が大きい人とは、自身の成長発達がストップさせられてしまう人です。その時点までの成長を破壊されることもあります。そして人との接触ができず、社会に入っていけず、社会的に排除されたままになるのです。これはイジメによる自死とともにもっとも重大な被害を受けた人といえます。思春期におけるイジメ被害には、子どもが人格的に成長し社会性が成長するときであるだけに影響はとても大きいです。イジメを軽く見てはいけません。

不登校情報センターが通常接触する範囲にはこのレベルにいる人はいません。訪問活動のなかでそれをうかがわせる人に会ったことはあります。イジメを受けた精神的なダメージの程度の差によるものですが、引きこもりの経験者と重なる部分はあります。そのことが通常接触する引きこもり経験者たちの持つ成長過程での問題やいまの課題を教えてくれました。