対価はなくても収支はプラスなので働きます

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Facebookのタイムラインに「プロにタダで教えてくれという平然と言ってしまう人たち」というのが入ってきました。コメントするみなさんは対価をもらうのが当たり前でしょう、という意見です。
必ずしもそうはなっていない私の場合をコメントに書きました。

青年期以上の引きこもり当事者からの相談やときには訪問では無料はおろか、交通費などの持ち出しで対応することは珍しくありません。
その機会を逃すと、その人は完全に誰かと連絡をしなくなるのではないかと思うと、金のことなんかはいっておれないのです。こういう私は皆さんの水準から言えばかなりおばかさんです。ま、許容してください。

あまりよく伝わらないかと思い、もう一度あらためてコメントしました。
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職業として継続していくには相応の対価をいただくのに異論はありません。私も職業として続けています。ただ最大の顧客である引きこもりの青年は要するに無収入です。払おうにもお金を持っていません。親ともけんか状態のことも珍しくありません。それを確認してやっているのではないので、金はもらわなくてもいい、そういうスタンスです。対価をもらうのを批判的に見る気はありません。論外扱いされるのを承知で、でもこういうタイプもいるので笑ってやってください。

後になって読み返すと、「じゃあなぜ」という理由がありません。居住まいをただすつもりで、そこを書きます。

私には特別の救済精神はありません。救済精神はどちらかといえば淡白です。
そういう人は私に人間を教えてくれます。私には特別の学問知識はありません。生きる死ぬがさし迫っている人は掛け値なしの人間の状態を示します。
本人は教えるつもりなど全然ないのに人間の深いところを表してくれます。私はそれにひかれます。ある種の依存症みたいなもので、対価のない不満足感よりも感謝があります。
実はその日もそうでした。交通費800円、総時間5時間かけて対価はなく会いに行きました。これだけの授業料で得たものを考えると特別の学問知識のない私には収支は十分プラスです。これがお金をもらわなくても働く理由です。

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