大学院修士課程で心理学を学んでいるK君が来ました。
ある心理療法家が引きこもり理解の一つの考え方を提唱しています。それを実証する「対人関係の問題と家族との関係」を明らかにするためのアンケートをつくりました。修士論文用だそうです。全部で10ページあり、アンケートに答える時間は15分から20分程度です。
このアンケートへの回答者を募集します。情報センターに来る人に勧めますが、関心のある人は来ていただいてもいいし、宅配もします。連絡をください。
メール(open@futoko.info)、FAX(03-5875-3730)に、お名前と送り先をお知らせください。引きこもり期間は必ずしも長くはなくていいそうです。
「研究調査活動」カテゴリーアーカイブ
神経エネルギーに関する追加的なこと
金子隆芳『色彩の科学』ノートで私は引用を省いたところがあります。「第3章 ヘルムホルツ三色説」の第1節「感覚神経の特殊エネルギー説」の一部です。
「ニュートンは…眼に入った光は視神経を波動のような形で伝わって行き、大脳のセンソリウムに到って光や色の感覚になると考えた。…」(37ページ)「この問題について一つの解決を示したのが、ヨハネス・ミュラー(1801-58)の感覚神経特殊エネルギー説であった。ミュラーによると、視神経とか聴神経といった感覚神経を伝わるのは、もはや光や音の波動のような物理的エネルギー、あるいはそれに類似したものではない。神経には神経固有のエネルギーがある。
そのような神経エネルギーへの変換は、視覚の場合は眼の網膜で行われると考えられる。ミュラーは何を考えたか知らないが、現代の神経生理学の定説によれば、神経の活動は電気的パルス説である」(38ページ)。
引用は続きますが一休みをして、註と私見を入れます。
*センソリウムとは、「大脳の感覚中枢で、そこで感覚が意識になる」(22ページ)。
ミューラー説を『色彩の科学』も現代の神経生理学の定説も否定しています。私が「精神エネルギーの消費と肉体エネルギーの消費には違いはなく…」といったのはこの否定説によります。しかし「ミュラーは何を考えたか知らないが」といいますが、意外に意表をつくことを考えていたのかもしれません。
「その活動がどのように『特殊』かというと、その原因が何であれ、例えば視覚神経の活動は視覚体験しか起こさない、聴覚神経の活動は聴覚体験しか起こさない、ということである。もし眼を電気で刺激しても、その電気が視神経を伝わるわけでもないし、ましてや『電気』を見るわけでもない。私たちは光を見るだけである。聴神経だったら音を聴くのである」(38ページ)。
この後、次の文章を私はノートしています。「特殊エネルギーの種類は感覚の種類だけある、例えば視、聴、味、臭、触の五種類としておこう。そして、『それしかない』。感覚神経のそういう特殊エネルギーの限定のゆえに、われわれは外の物理的世界がどうあれ、天から与えられた神経エネルギーの五つの様相でしか世界を知ることができない」(39ページ)。
ヘルムホルツはミューラーの弟子の1人であったが、『生命といえども物理化学的過程であるから、物理化学的法則で説明すべき』として「筋肉の代謝の問題からエネルギー保存則をたてた(1847)。人間も熱機関と同じだということである。こういう人間観だからミューラーの生気論を批判するのも当然である」(40ページ)。
『色彩の科学』はこのようにミューラーに代わるヘルムホルツ説を紹介しました。私はこれを受け入れます。それでもミューラー説の未知の部分も知りたいし、「感覚神経のそういう特殊エネルギー」の研究により現代の神経生理学に新たな意見表明はないかと気にしているのです。
16日の「精神エネルギーの消費と筋肉エネルギーの消費は違うか?」で書いた次の2点はそれを意図的なテーマにするものです。
(1)筋肉の代謝とは筋肉を動かすエネルギーと同じに取っていいことなのか。
(2)パルス波の1つひとつのエネルギー量は同じとしても、精神エネルギーの消費と肉体エネルギーの消費の問題を扱ったことにはならないのです。
「小難しいことを書いてわからない」という意見を聞きましたので、しばらくはこの問題はブログから離すことにします。
社会は不登校にどう対応したか
本日の事務作業グループは学習会をしました。
テキストにしたのは、ブログ「センター便り」掲載の「全日型の通信制高校」(4月2日)、「昼間定時制高校の広がり」(4月3日)、それに「通信制高校の広がりと意味(素描)」(五十田猛の論文とエッセイ・2011年6月)です。
これらは不登校に対して社会はこれまでの20年間どのように対処してきたのか、その変化を書いたものです。事務作業として学校や支援団体の情報を集める活動をしていればわかることです。
メンバーはそれぞれに中学時代や高校時代を振り返りながら体験を話しました。そのときは気づかないことですが、どういう過程があったのかを知ります。
情報収集の事務作業はこういうことが可能です。自分なりの問題意識が生まれればそういうことも開けます。
ブログにしてもエッセイにしても私が事態を理解するのは情報収集を通してです。それをメンバーに伝える機会にした学習会でした。
宿泊型フリースクール
フリースクールは80年代から90年代にかけて不登校に対応する教育機関としてかなり普及しました。
2000年代になってからはそれまでの勢いはないようです。かつてあったフリースクールのいくつかが消えました。もちろん従来型のフリースクールも存在します。
他方、それぞれ活路を探して今日まで継続しているフリースクールもあります。私がざっと調べた範囲では2つの方向で生き延び、または活性化しています。
1つは、通所する生徒が高校年齢になるのにともない、通信制高校のサポート校になったことです。とくに都市地域のフリースクールには多いと見うけします。
もう1つは宿泊型のフリースクールです。こちらは山村型になるかもしれません。農山村にあるフリースクールはもともと宿泊型です。初めからそういう性格のものでした。その多くが今日も活躍中です。都市域においても少数ながら宿泊型ができています。
不登校情報センターの情報紹介サイトにおいては「全寮制高校・寄宿舎のある学校」として当初は全寮制高校と山村留学型の小学校・中学校を念頭にしてきました。しかし、宿泊型フリースクールが相当数このページ群に含まれているのを確認したところです。
昼間定時制高校の広がり
不登校生への対応の中で生まれたもう1つは昼間定時制高校です。こちらは主に公立高校の不登校生への対応です。
①、昼間とはいっても夜間課程があるところが多く、3部制として朝・昼・夜の課程があり多くは選択性になります。ほとんど全日制と変わらないくらいなのですが、朝を抜かして昼と夜の課程を選べます。科目選択が多くなり単位制にしているところもあります。
②、高校卒業資格に必要な単位数が74単位のまで下げたのは文科省の不登校対策といえるものです。それを活用して3年間で単位取得は可能ですが、制度としての4年生を崩していません。3年で卒業できる生徒もいるし、4年であっても留年とは違います。入学し在籍していてもなかなか登校できない生徒に対して弾力的に対応できる点も評価できます。
③、なお文科省の不登校対応としては、大検を高卒認定の変更したことも挙げられるでしょう。
④、これらの全日型の通信制高校と昼間定時制高校は、制度としては以前からありました。不登校生徒が増大したなかで、古くからの制度を新たに活用した面があります。しかし、多くの人が望んだような全日制高校の改善・改革による不登校生の受入れは基本的には生まれなかったのです。4000校を超える全日制高校のほとんどは不登校を横目にしながらスルーしている状態です。これではどこかの時点で途絶えてしまう高校が出てくるかもしれません。総じていえば不登校や中退という社会的な大テーマを生かしたのは全日型通信制高校と昼間定時制高校といえるでしょう。
全日型の通信制高校
全日型通信制高校と昼間定時制高校の2つのタイプが不登校生への対応の中で生まれ、広がりました。その概要を紹介します。
全日型通信制高校と自称するところもありますが、そう自称しなくても制度としては大差がありません。一般的には通信制の枠内の高校です。これは主に私立の通信制高校の場合です。
①、登校日(通信制高校におけるスクーリング)の日数が、かなり多くなります。週5日登校できれば全日制高校と同様です。私は通学型の通信制高校ということもあります。全日制高校においては欠席日数が3分の1を超えると、出席日数不足になり、その学年の履修条件を満たしません。通信制高校における必要な登校日数は20日程度ですから、欠席が多くてもそこまでになる人は少なく、多くの生徒が出席日数の不足にはなりません。
②、通信制高校の特色にレポートの提出があります。自学自習した内容をレポートにまとめ提出する趣旨です。全日型通信制高校では授業等は全日制と同様にできます。また欠席が多い(進級に支障が出るほどではなくとも)生徒には、各学校におけるそれぞれの対応が可能です。全日制であれば補習授業・補講、追加試験(追試)などの特別対応になりますが、全日型通信制においては日常の教育活動です(学校により方法は少しずつ違いますが)。単位制、3年間で卒業(3修制)できます。
③、不登校生に対応するために生まれた多くの通信制高校は、このように全日制のような形で教育活動ができます。しかも全日制の持つ制約を受けません。だから不登校生を受け入れやすくなっているのです。なお付け加えれば、校庭など全日制では必要な条件が加わります。通信制では施設の面でもつくりやすくなっています。
④、通信制サポート校も内容としては通信制高校と変わりません。単位認定や進級、卒業の判定を出せるのは連携する通信制高校の側にあることが違います。
不登校問題はいつまで続くのか
「不登校はいつまで続くのですか」という検索で不登校情報センターにアクセスして人がいるようです。
学校に長期間行かない子どもはこれからも生まれるでしょう。学校の役割は学習と生身の人間を学ぶところ、それを通して人格の成長を期待するところとしましょう。教育、体育、徳育という言い方もあるようです。それにより社会人になるための準備施設が学校です。
このうち現在の学校の役割は学力に偏重しました。その結果、学習についていけない子どもを大量に生み出す場所になりました。生身の人間を学び友人ができる場から離れていじめの温床になりました。学校制度としていじめは「あってはならない」故にいじめは隠蔽されるところになりました。制度のゆがみはこのように起きることを教えてくれます。
学校がじょじょにこうなったのですから、学校に行かない子どもが出てきて当然です。必要なことは学校以外に子どもを成長させる社会的な環境をどうつくるのかにかかります。学校以外の子どもの居場所が真剣に求められ、つくられつつあるのが現在ではないかと思います。
学習塾のフリースクール化、学習塾のサポート校化はその一つの傾向です。適応指導教室や特別支援学校・学級というこれまでの学校とは様子の違うものがかなりつくられ広がってきました。子どものための居場所づくりは他にもいろいろと模索中です。それらの全体が何と呼ばれるようになるのかはこれからの成り行きです。
それでも学校がなくなるとは想定できません。しかし、そういう社会的な受け皿が広範にできれば不登校は社会問題ではなくなるでしょう。学校に行かなくても、社会の一員として生活できる条件をその人なりに身につける場所があれば問題は縮小から消滅に向かうからです。可能性としては自宅がその場所になることもありえます。
「不登校問題がなくなる」というのは、私の予測ではこのようなものです。決して全ての子どもが学校に通学できることによって問題が解消するのではありません。
乳幼児の母子の愛着行為
引きこもりのテーマは深くて重いと考え、一つの可能性として乳幼児の事情を調べています。人がこの世に存在として生まれたとき、すなわち乳児のとき人生に必要な何を獲得するのかを考えたことになります。
手にしたのは小此木啓吾『父と母と子、その愛憎の精神分析』(講談社+α文庫、1997年)です。その初版は1991年青土社の『エディプスと阿闍世』なので、20年以上前の本です。参考になりそうなことはいろいろありますが、中心点を紹介しましょう。
「…大人は、赤ん坊をあやしたり、だっこしたりすることによって、自分たち自身大きな満足を得る。つまり、赤ん坊は、つねにその存在そのものが、大人たちにある種の心理的な満足、つまり報酬を与えるようなものを持っている。
このような赤ん坊の特性は、さらに発達して、生後三ヶ月ぐらいから七、八ヵ月の間に、もっと積極的な活動性を発揮するようになる。例えば、大人に向かってほほえみかけたり、大人の応答に対して、キャッキャッと笑ったり、あるいは、目と目を合わせて、じっと見つめたり、あるいは、抱かれたときにさまざまな満足を表現したり、あるいは、いろいろな発声によって呼びかけたりする。
これらの子供側の発するさまざまなソーシャルな信号に対して、大人たち、特に母親の心に情緒応答性が高まる。情緒応答性を発揮して、抱いたり、あやしたり、あるいは視線を合わせたりすることで、母親のほうもまた満足を得る。
さらに子供が発達すると、…乳幼児側の愛着、つまりインファンタイル・アタッチメントとよんだ、赤ん坊からのアタッチメントが、母親なり養育者なり、一定の対象に向く形に形成されていく。
これらの愛着を向けられた母親や養育者は、当然それに応えたいという気持ちを刺激され、それに応えようとする自然な要求が生まれる。その欲求を満たすとするときに、さまざまな情緒的な応答性が生まれる。このような情緒応答性は、マターナル・アタッチメントという言葉がふさわしいような、子供に対するさまざまなアタッチメントを、今度は母親の側につくり上げていく」(196~197ページ)。
*インファンタイル・アタッチメント=乳幼児側からの愛着。
*マターナル・アタッチメント=母性的な愛着。
赤ちゃんが母親からのマターナル・アタッチメントが阻害されるのは、「母親の個人的責任に委ねられ、女性はますます、男女同権の名において、自由競争の社会の中で孤独にやっていかなければならない」ためです(202ページ)。しかし、赤ちゃんの先天的な気質によってはその影響があるかもしれません。相互関係にあるのです。そのなかで社会的な影響を考えることが必要でしょう。
この情緒的な愛着関係により、乳幼児期の感情基盤がつくられるのでしょう。
以上は、小此木先生によるものです。他にもこれに関して書いたものがあります。
参考①=「被虐待児症候群」(2005年12月)。
参考②=「乳児期ー存在不安の遠因が生じるとき」(2006年4月)。
電子出版の流れを実感
子どもの未来社から『ひきこもり 当事者と家族の出口』(2006年)という新書版を発行していただいています。その本を電子出版にするように案内が送られてきました。出版物が電子出版に広がっていく時代をこのような形で実感するわけです。
「本著作物の全部または一部と同一もしくは明らかに類似すると認められる内容の著作物を、…自ら運営するホームページ(ブログ、メールマガジン等を含む)において利用しようとする場合においては、事前に通知し、同意を得なくてはならない」ということになります。そうたいした決め事ではないです。上の本は私の手元にも数部は残っています。先日もどこかに書いたように自ら販売する努力もしなくてはなりません。1冊840円プラス送料160円です。よろしくお願いいたします。
成育のマインドマップ的定式化
大人の引きこもりを考える教室(14日午後)は、参加者が少なく10人以下です。
今回は予定のレジュメ「仕事についたときに感じる体が動かない」をごく簡単にすませて「肯定面を見つけ認識する工夫」を主な講義報告にしました(11日のもの)。
この視点からの交流と参加した親の話しの実例を見ていく機会になりました。
自分なりにはこれまで以上にスタンスが明瞭にできたものと思います。
今後の親の相談では「生育歴」を書いていただき、よく見ていこうと思いました。
自分が自分の成育歴(?)を自己評価する方法にマインドマップというものがあるようです。これについてはよく知りません。少し調べた上で、親が引きこもりになった子どもの“マインドマップ的な成育歴”を書いていく作業を試みるものになります。これは「肯定面を見つけ認識する」の手段に相当するでしょう。定式化できるかもしれません。
今日は白紙を渡し、次回までに生育歴を書いてくることを宿題にしました。それを見ながら可能ならば定式化に向けたものを考える予定です。
生育歴に書いてほしいのは、たぶん次の3面があります。
保育を含む学校経験、職歴、受験、資格試験など。
特徴的な身体状況(アレルギー、受診・入院)、行動・行為(いじめ、暴力、逃走など)。
興味関心・よくしていること(ゲーム、パソコン、テレビ、料理、絵描き等)。
これらに関することを生育歴として経年的にまとめることです。
この教室で考えることになったもうひとつは「主夫業」(男の家事労働)です。もう少し高く評価してもいいかもしれません。今後の検討事項です。