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Center:(18)「相手との間に壁があると話しやすい」

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(18)「相手との間に壁があると話しやすい」

不登校の子どもで友達がだんだん少なくなって、ついには一人も友人らしい人がいないということは珍しくありません。
そうすると友達がほしくなります。
この問題を知る人の中では、すでによく知られていることですが、友達を求めているにもかかわらず、同年齢の人とはなかなか友達関係にはなりづらいものです。
この事情は同年齢の人は自分との比較対象になりやすく、心理的抵抗感が強い、という面である程度の説明がつきます。
しかし、人と人とのコミュニケーションという面からすれば、相手と自分の間に、歴然とした差があることの方が、とくに引きこもり経験者にとってはスタンスをとりやすい面があることにも注目していいと思います。
十代においては3歳の年齢差は明確な違いであり、それが、上下関係とか、先輩・後輩関係としての枠をつくりやすくします。
そのなかでたとえば言葉づかいもあまり無視せず自然に目上、目上の関係がとれます。
実はこれは二十代になっても同じですし、30代になってもなお通じる事情です。
引きこもり経験者同士であっても、この事情は弱く、しかしかなり確実な重力のような作用があります。
同性よりも異性(男女)間のほうが話しやすい、という人のなかにも、この自分と相手の関係を枠としてつくりやすく、したがってスタンスをとりやすい、受けとめやすい人がいることも確かなことです。
家族同士――親と子の関係、きょうだいとしての関係(とくに自分が兄や姉のとき)、引きこもりの人が、親に対して、ほかのきょうだいに対して、スタンスをとりづらいと思うことがあるのは、この人と人との関係の枠が揺らいでいたり、壊れている、明瞭でなくなっていることがあるための思うことがあります。
家族間においてお礼をいったり、ほめ合うことに、とまどいや強い照れくささを感じるのは、このことと関係があるように思うのですが、どうでしょうか。
引きこもりの人に対して、家族以外の人が介在すると、コミュニケ―ションづくりや外出の機会づくりが家族のときよりもスムーズにいくというのもまた、このことと関係しているのかもしれません。
さて、引きこもり体験者にとって、同性の同年齢の人(片方が引きこもりであるか、両方が引きこもりであるかを問わず)に対して、どういうスタンスをとるのかは、ちょっとしたハードルがあるように思います。

これは個人差がとくに大きくて、そのハードルをほとんど抵抗なく越えられる人間関係になれる人、その低いはずのハードルがなかなか越せない人・・と表われ方が違ってきます。
たぶん相手との相性というのが、とても明確にでるのではないかと思います。
この場面に直面した人には「ムリをするな」と言いたいです。
自然につき合える人がいます。
それは幸福なことです。
そうでなければ、日常生活に必要な範囲でのつきあい方でいいのです。
それ以上であることはあえて求められないのです。
それを超えていこうとすると、相手のことをあれこれ考えて、「もう少し~であったらいいのに」とか、「どうも自分は~ができない」という気分にはいっていくように思います。
そういうことは、自然の流れに身を任せ、長い時間のなかで結論が出てくることと待てばいいのではないでしょうか。 
「親しくなっていくにつれてつき合いづらくなる」という人がいますが、これも上に述べてきたこととある程度は関係しています。

親しくなるとは、自分と相手の枠が弱くなったり薄れていくことなのでしょう。
特に同年齢であれば、そのなかでスタンスがとりにくいのでしょう。
話し言葉にしても、いわゆるタメ口を使っていいのかどうか戸惑う、対等でいいのか、ここは相手を目上にした方がいいのではないかと一瞬躊躇する機会が頻発する。
…ともかく人と人に関係に細大もらさず正確に対応しようとする気配り人間である引きこもり体験者にとっては、これらはとても気疲れする、エネルギーをつかう事柄なのです。
この精神的修羅場から抜け出す方法は、各人各様であろうと思います。
人によっては、この修羅場から抜け出さなくてもいい、と考えられる人もいるようです。
(その抜け出そうとしてエネルギーをつかうこと事態が悪循環になっている場合。)
私ならどうするのか、と問題を設定して、この問題に私なりの考えを述べたことがときどきあります。
しかし私はこれと同じ問題を抱かえたことはありません。 
ただ私には20代の前半に「私は未熟、未完成な人間なので、もっと努力し、人から頼られるより完全な人間」をめざした時代がありました。
あるとき、ふっと力が抜けて、「自分はこのままでも自分なりにやっているじゃないか」と感じたことがありました。
そのとき、その「いまのままの自分」と「より完全な自分」の落差を埋めるのに、私はそこにやや後ろめたさを感じて「居直る」という気持ちをもち出しました。
「自分は自分でいい、このままの自分を周囲の人に受け入れてもらおう」という気分です。
人知れず、私の心の中で決心し、その気持ちで、周囲の人と対応し始めました。
「私はこんな未熟な未完全な人間ですが、よろしくお願いします」――それを“居直る”気持ちで支えていったのです。
これは、場面、状況は同じではありませんが、私なりの“精神的自立”のしかたでした。
たぶん相手によってはよりうまくいく方法はあったでしょうが、当時の私には一人ひとりにたいして自分のスタンスを考えるだけの力量も、相手の受け入れやすいものがどういうものであるかを見分ける力もありません。
相手によって変えるのではなく、まず自分のスタンスを確立する。
相手との関係は、それぞれの付き合いの中で自然に生まれてくるものに(将来に)任す、ということで進んできたように思います。
人それぞれでしょうが、私の場合の例として話します。
このテーマにおいても参考になるかもしれません。
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