文のわかりよさ・わかりづらさ

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私の書いたものを見て「わかりやすい文章です。話しているときは何のことかわかりませんが」と言われました。
文章がわかりよい、というのは意外でした。話していることがわかりづらいというのは納得です。
頭のなかにあるイメージを文章にするのはけっこう大変です。
まず全体像をおおよその文字にします。
論理の筋が通っているのかを読みます。このときかなりの訂正・書き換えをします。
証拠となるものを思い出せば取り入れようとします。このときも訂正・書き換えの割合は高いです
一つの文が長すぎるとわかりづらいので短くしようとします。ここでもときたま文章の訂正・書き換えがおきます。
その他の文章上の細かなことをチェックします。
比較的短い文章、400字原稿で3、4枚のものでも下書きを数回書き直し・読み直します。
書いてすぐにネット上にアップするのはなるべく避けます。できれば外出をはさみ、戻ってからからアップしたいです。
実際にアップときにはもう一度、読み直します。
こういう手順ですから、少なくとも話し言葉よりはわかりいいはずですが、まったく油断できないしわかりやすくなっているとも思えません。どうしても難しくなってしまう気がしています。

M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んでわからなかったけれども、その本の解説を見たらよくわかった、という人がいました。M.ウェーバーは白紙のうえに構想したことを苦悩しながら表現したのでしょう。解説者はその要点をわかりやすくする作業をしたのです。こういう事情があると思います。
若いころI. カントの『純粋理性批判』の文庫本とはいえ分厚い1冊を読もうとして、数ページで投げ出したことがあります。H.ハイネが『ドイツ古典哲学の本質』というのを書いていて、カントの考えていたことを紹介していました。「わかりやすい」のとは少し違いますが、それなりに理解できた部分はあります。
M.ウェーバーやI. カントに比すべきレベルとははるかに遠いのですが、白紙のうえに頭のなかのイメージを文章表現するのは、苦心があり、わかりやすさを追求する余裕がないのです。
私は相変わらずわかりづらい文章を書いていくことになりますが、よろしくお願いいたします。

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