障害者枠の公的支援に思う

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ロンドンで障害者スポーツの祭典、パラリンピックが開かれています。オリンピックの後であり、祭りの後のまた祭りの感じがあって関心はいまいちのようです。
オリンピックの前にパラリンピックがあれば、関心も少しは高くなるのではないかと話していたのですが。
何かで読んだのですが、パラリンピックの創始者の一人が語った言葉をうろ覚えですが記憶しています。
「失われた機能を残念がるのではなく、持ち合わせている機能を最大限に生かす」。こういう言葉ではなかったかと。なかなかすばらしいと思います。

障害者ということで思い出したことがもう一つあります。
引きこもりを、障害者枠により公的に支援していこうとする動きについてです。
全面的に反対というのではないけれども、どこかに違和感があります。
それはたぶんこういうことではないかと思います。
引きこもりは、人間にとって周囲の事態に対する正常な反応から始まっているのではないか。生物体としての持ちうる正常な反応が引きこもりであり、その期間が長期化し、程度が深くなることにより生じた、心身の不全状態といえるのではないか。
心身の不全状態は障害者の枠になることもあるけれども、正常な反応から始まっている部分を見落とすことになる。そこがおかしい、残念に思うのです。
例えば、痛みを感じることで人は危険を回避する行動をとります。このような反応がなければ生命の危機にまで進むことがあります。
引きこもりとは社会のあるおかしさを感じる人の正常な生体反応であり、それを障害として一律に扱うことの不自然さがあるのではないか。このあたりがさしあたりの結論です。

障害者枠の公的支援に思う」への4件のフィードバック

  1. 同感です。
    ひきこもり経験者の多くが「優しすぎるために生き辛い、正直すぎるために生き辛い、こだわりが強いために生き辛い。そしてそのために社会の中で傷つく。」これは事実です。
    裏を返せば「優しすぎないこと、正直すぎないこと、こだわりを強く持たないことが生き辛くないこと。そうすれば社会の中で傷つかない。」これも事実になります。
    わたくしたちの社会はそうなのです。
    このような社会が正常であると考えるならば、生き辛いこと傷つくことは障害にあたるでしょう。
    逆にこのような社会がおかしいと考えるならば、それは社会のあり方への告発でしょう。

  2. 私は一回りまわって別の見方をしています。

    日本では障碍者(この漢字にさせてもらいます)といえば、生まれつき(先天的)あるいは事故の被害などにより障碍者になったというイメージがありますが、日本以外ではこのパラリンピックの発祥のように、そして現在でもパラリンピックに参加する大国の障碍者スポーツマンのように「傷痍軍人」であるというイメージがあります。すべての障碍者が軍人、あるいは退役軍人であることはないですが、スポーツを発展させてきた原動力は「国のために負傷をおった」ことへの敬意があるのはまちがいありません。状態的には、先天的障碍者も、傷痍軍人も同じですが。

    国といった社会のために負傷したのと、引きこもりが社会のせいで引きこもっているのを同じだとしたら、強引ですが、同じ障碍者でもよいのではないかとも思えます。
    そしてどちらも、人為的にそうならない社会をつくることはできる可能性はあるのですから。

    むしろ、先天的障碍者をことさら区別している意見のように見えます。

  3. 松田です。
    お2人からコメントを寄せていただきもう一度、この問題を考えることになりました。
    アルンさんは、私の意見をわかりやすく明瞭にしていただきました。
    無名さんの意見は、引きこもりの支援を障害者枠で進めるのに異存はないということになります。
    問題は先天的障碍者(無名さんの表記に従います)です。
    人は障碍者に生まれるのではない、障碍者になるのだ、といいたいです。傷痍軍人もそうです。ある気質の人が社会環境の中で引きこもりになり、そのあるレベルにおいて障碍者になるのです。こういうと障碍者は、後天的条件の中でそうなるのです。

    人は女に生まれるのではない、女になるのだ、をもじった言い方ですが、女の赤ちゃんはほとんどが社会的な女になります。同様に男の赤ちゃんの大部分は社会的な男になります。
    重大な心身の障碍を持って生まれた人の多数が障碍者になる可能性を否定できません。しかし、引きこもりになった多数の人が先天的に心身の重大な障碍を持って生まれたとは思えません。少なくとも一昔前はそのような気質をもった人の多くは傷碍者にならなかったのです。引きこもりがこれだけの多数になり、社会問題になったのはこの2、30年のことであり、その原因を社会的な環境・背景に求めるのはしごく当然ではないかと思います。
    私は先天的障碍者を区別しているのではなく、社会的な背景が引きこもりを生み出していると考えているのです。問題は社会のあり方に関わるのです。そうならない社会をつくることが大事であるという点は無名さんと同じです。

  4. なにやら読み間違えていらっしゃるようですが。

    上のコメントで私は引きこもりが社会に原因がないとは言っていませんし、むしろ原因があると書いています。(多くはそうだと思います。一部、統合失調症などの病気によるものもめずらしくはないと思いますが)

    障碍者の枠をどこに引くかについて、それは社会が決めているという見解も同意します。

    社会的原因による引きこもりが障碍者枠に入れることが社会的原因であることを覆い隠してしまうと考えていらっしゃるようでしたら、それは意味のないことです。なぜなら前のコメントで書きましたように、傷痍軍人のようにすでに障碍者の中に社会的原因によるものが含まれているからです。

    原因が社会的であるかと障碍者の境界の問題はごちゃ混ぜにしないで整理して考えたほうがよいと思われます。

    「障碍者と扱わなければ、障碍者ではない(障碍者とはならない)」という文脈を、社会はもっと障碍者を包摂すべきだという意味合いでおっしゃるのならば同意いたしますが、だから障碍者にあたると考えるべきではないとおっしゃることには賛同いたしかねます。

    原因により障碍の範囲を定めようとすることに無理があります。状態により障碍を定めるべきです。

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