(86)『不条理だらけの世の中』

12月 3rd, 2009

 一旦、ふと思いとどまり、何かを考え直す必要がある。
 欲望を持っていることは悪くはないかもしれないが、深く欲を抱いてしまうと、どこかで落とし穴へと直面をしてしまう場合がある。
 人間には、多少なりとも欲を持っていて当然ではあるかもしれない。
 それ程に生きる意欲が多くはない自分として、現在へと至るまでにも何とか生き伸びている。
 勉強や学力におけるものでも、それなりの意欲が必要になる。
 また、食べ物でも肉類を好む人間ほど、欲の強いような人間が多い。
 長生きがしたいと欲を強く持てば、百歳を過ぎるまでに生き伸びてしまうかもしれない。
 しかし、長生きをすることが、一概によい訳ではなく思える。
 話題は少し元へと戻り、欲がある人間ほど、社会の中で要領をよく生き伸びていかれるものであるように思う。
 いつでも切実でいることが、必ずや救われる訳ではない気がする。
 誠実で真面目ないい子ほど、ある意味では狙われやすく、様々と報道である卑劣な犯罪での被害へと出くわしてしまう事件がよくあるものだ。

(85)『もう一人の自分。』

12月 2nd, 2009

 少しは格好を付けていたい。
 いつでも平常な暮らしの中で変化をしないままでは、このような本にするための題目や書きたい自分史における内容となるものが、何一つとも思い浮かばなくなってしまう。
 作家や小説家などを自らが目ざしている訳でもなければ、それ程に好き進んで文集を書いている訳でもない。
 ただ、全うに真面目でありたくはないだけである。
 朝が来ても、夜になっても、春が来ても、夏が来ても、秋が来ても、冬が来ても、僕は生涯においてナルシストのまま自分を男女の中途半端な人間性として生かし続ける。
 オー、ダーリング、ダーリング、ダーリング。
 自分らしく生きろ!
(ダー,リング!)

(84)『うつ病に陥った時、静かに考える』

12月 1st, 2009

 何時、突然に難病がおそって来るかもしれない。
 日頃は何も体に異変を感じていなくても、前ぶれもなく急に症状が現われてくるような病気など。
 また他に、自閉症といった心の病もあり、体の持病とは別もので、症候群と後に付くものもある。
 人には安易に打ち明けられないようなもの。
 幼い子どもの時には、はっきりと症状がわからなくても、ある程度の年齢に達してから表に現われてくるような持病などもある。
 対人恐怖症や視線恐怖症。
 また中には発達障害者として主にある、性的逸脱症といった変わった衝動を現わす場合もある。
 誰もが正常である人間のように見えても、人には見えない所に何らかの障害が隠れている。
 まるで、まやかしであるかのようにも、何でも張り切ってできる世の中ではない。
 美味しそうなもの程、後に見えない怖さが潜んでいるかもしれない。

(83)『高い地位に立てる程の醜さ』

11月 4th, 2009

 世の中は何でも金が全てなのだと、金もちを目指す人達が多くに現存をする時代。
 貧乏な暮らしよりは、裕福であるほうがマシであるかもしれない。
 だが、金欲や物欲に体裁気取りなど、人よりも高価な物を手にしたいといった人一倍に高い欲求や価値に対する欲望などが、場合によっては人間らしさを失わせてしまうことがある。
 高級車を手にいれたいという高い望みや、人並以上に贅沢な豪宅に住みたいと願うような傲慢な欲を持ってしまうことなど。
 王者であれば、多少なりに生きがってはいられても、どこかにおいては人間らしさが感じられない。
 逆の意味でいうならば、王者である程に、ご愁傷様ではあるかもしれない。
 幸せなどを求める前に、何かより大事なものを忘れかけてはいないかどうか、もう一度思い直してみる。
 まだ気持ちが若い自分には、人間社会でも複雑な格差においては何にも理解が出来ないままに、自分自身が露頭に迷ってばかりいる。

(82)『ぬるま湯に浸っている怖さ』

11月 3rd, 2009

 自分に辛く苦しい場から逃れ、最も居心地が楽であるような安住の場へと居座り続けてしまった後、そして恐ろしい程にも気楽なゆえに退屈であるかのような日々の連続へと陥ってしまう。
 過ぎてみてから思い返してみれば、それはただ辛さから逃れたいがために、今現在に居座っている楽な地へと自分が逃げてしまったことであると思えてはならない。
 どちらにしても、ずっとそのままでいて幸運であるはずない。
 さらには、今のままでいいのかどうかと、今後の生涯における不安心が込み上がっては苦痛を抱き始めてくる。
 けれども、元をたどれば自らがそのように進んでいることでもあり、どこかは仕方がないようにも思えている。
 人生での目標などは一切持たず、どう生きようかと露頭にさまよいながらに少しずつ先へと歩み続けていくことが、自らにとっては相応しい生き方であるかもしれない。
 そのように居直るしかないであろう。

(81)『一時期でのロマンス』

11月 2nd, 2009

 ある時期に、やたらとスターであるかのように目立ち、その時期が過ぎれば忘れ去られたかのようにも存在感が目立たなくなってしまう。
 現在からの時からいろいろと振り返ってみれば、過去に輝いていた昔のアイドル達や一時期に有名人であったかのような人間が思いあげられてくる。 
 誰でもずっと輝いてなどはいられるはずがない。
 何かと自分が目立てるような時と、その逆にどんなに自分を顔広くアピールをしても、全く目立てないような時もある。
 今までに自分が生きてきた生涯の中にて、数多くとそのような経験を積んできた。
 それは、自らがわりと目立ちやすいタイプの人柄でもあるゆえに、自身としては人気者になどはなりたい訳ではなくても、恥かしくも非常識人のような恥さらし者として目立ってきたことが多くにあった。
 子どもの頃、中学生の時にはヘアースタイルにやたらと興味があっては、学校でも休み時間になると鞄の中に隠し持っていた整髪剤を取り出しては、わざと可笑しな髪型に変形させてみたりと悪ふざけをしたものであった。
 大人となった今でも、いろいろな整髪剤を自ら手に入れては試してみたりする。
 何だか自分としても、子どもの頃に楽しんでいた悪ふざけ心が再び今となって二十数年ぶりに甦りかけてきたかのような不思議な心境でもある。
 それは何らかの変化を求め始めている現われでもあり、ただ変わらないまま漠然と生きていてはもったいないと感じ始めている。
 人生は長いようで、案外にも短く儚いものであるかもしれない。

(80)『若さは変化を求めなければ』

11月 1st, 2009

 めまぐるしく動いている日々の中で、多くの子ども達は少しずつにも成長をしている。
 子どもだからこそ、成長をしておかしくはないのでしょう。
 ある程度の年頃な時期になれば、色々とあまり干渉されることに対してうるさく思えてきても仕方のない時期でもある。
 そばに来ては、やたらにうるさく世話を焼こうとする大人や、何かと道徳的な説教ばかりをしては、相手に道徳心を押し付けたがるような古いタイプの大人達。
 それだけにアットホームな空間の雰囲気にしたいのだろうが、場合によれば窮屈で最悪な空間の場ともなってしまう。
 以前、自分もそのようなアットホームで狭くこじんまりとしたような社会の中に、ごく一時期は席を置いていた時があった。
 それはまさに窮屈な居ごこちでもあり、あまり喧しく自分を干渉されたくはないと思うほどにも最悪な状況でもあった。
 広い社会がよい訳ではなくても、逆に狭くて古い放心のような社会の場が  一概によい訳ではない。
 狭い分にも、アットホームな環境にふさわしい人間にとっては居ごこちはよいかもしれないが、よい面だけではなく時と場合によれば広い社会よりも厄介ともなる摩擦や問題などが起こりやすくもなる。
 ある意味にて、狭くアットホームな場は広い社会の場よりも危険度はかなりに多くあるとも言える。
 この主題としての目的は、とくに何らかの結論を求めるものではなく、古いような考え方や放心などに重きを置いてしまわないほうがよいと言ったことを主に強調して述べたい。

(79)『今はまだ、戸惑う。』

10月 2nd, 2009

 これからの先の生涯をどうしようとか、もっと自分が年をとった十数年後や、または数十年後のことなどよりも、今現在におかれている境遇や近い将来のことのほうが、最も考えるべきものであるように思う。
 決して過去など振り返ってはならないとは、そう頑に決め付けなくてもよい。
 ただ前向きに生きる姿勢だけが、全て正しい訳ではないような気がしている。
 人が生きている間には、よいことが楽しいことだけではなく、むしろ嫌なことや辛く苦い思いなどが多いからこそ、色々な詞や歌が我々のそばに存在をしているのでしょう。
 そして、たくさんもの涙を流してきたことでしょう。
 若ければ若いほど、傷つき悩むようなことは多い。
 それが一つの青春でもある。
 ある意味ではジェラシーと似たものでもあるかもしれない。
 いつでも笑ってばかりいては、それはある程度に人生を諦めかけたものを表しているに等しい。

(78)『紙芝居だよ、人生など。』

10月 1st, 2009

 今という時は、いったい何のためにある時間であるのだろうか。
 ただ毎日、訳もなく日々に追われて過ごすだけである。
 両親と顔を合わす時が多くなるほど、少しずつながらに親離れをしなければいけないと思う気持ちを強くに感じてしまう。
 ずっと親に甘えていられる事はなく、やがては親を頼ってばかりはいられないのだと、先の苦い現実を想像しては、年を老うのは嫌に思うだけである。
 子どもの頃から決していい子ではなかった自分として、主に父親のような真面目で有能であるような人間とは全く真逆で、実に不真面目で最低な息子なのである。
 しかも、そのような自分を正当化してしまいたくも思っている。
 親と子は、反面教師のように決して似なくてもよい。
 どこかでは尊敬をする気持ちはあっても、だからこそ父とは真逆でありたい。
 全く、親不幸者な駄目息子よ。

(77)『たとえ無理な望みであっても…』

9月 1st, 2009

  『君は夢を見ろよ、君の夢を見ろよ、人の夢は見るな、君の夢を見ろよ。君は夢を見ろよ、君の夢を見ろよ、夢の夢は見るな、君の夢を見ろよ。君は夢を見ろよ、君の夢を見ろよ、君が夢を見ろよ、君の夢を見ろよ。』
 いつの時しか、誰かに言い聞かされた文句を思い出す。
 どうしても、今の自分は過ぎた過去を振り返らざるを得ない。
 それは、おそらく現在におかれている現状のようなものが、今のままではいけないと言った気持ちが乱気のように揺れ動いているからに思えてくる。
 それゆえに、まだ自らの人生を諦めてはいない。諦めてはいけない。
 所詮、この世を虚仮にしている奴が、まともになって普通の社会と関わっていこうなどとは無理なことだと言われても、それは一概にそうだと言い切れる訳ではなくも思える。
 なぜならば、今自分と交わりがある最も間近な存在となる相手の中に、駄目な支援者であると自らがそう言い切っては正当化をする指導者のような人物との関わりがある。
 今の自分には、以前、何年か前までに関わりが長くあった兄貴分的存在であった指導者と、そして現在での駄目支援者的な指導者とが、主に比較の対照にあたる二方となる。
 今現在においては、疎遠と遠ざかってしまった兄貴分的であった人物を、やたらに愛しく思えてはならない。
 いつの日にか、この主題となる二人が互いに出会える時が来ることを、自分の中でひそかに期待をしている。