(76)『幻想だけを追い求めても・・・』

8月 3rd, 2009

 ある年頃での心境の変化。
 外見などを今までよりも少しは派手にしてみたり、髪型をそれまでとは違うようにスタイリングをしたり、服装の趣味を変えることなどと。
 自分は今までに何度か日本以外での外国へと足を運んだことがあり、ヨーロッパやアメリカにも行ったことがあった。
 さすがに西洋は、現地に居る人達もスタイルが良く、日本人は顔負けをしてしまうほどにも空気が澄んでいた。
 ずっと狭い島国である日本だけに居るよりも、東南アジア以外での国へと足を運んでみたい気持ちが強くにあった。
 それは西洋映画や洋楽など自らが見聞をして、それとなく日本よりも全体的な格好の良さに憧れを抱き始めて、よそ国へと訪問をした。
 ヨーロッパでは、パリにあるルーブル美術館にも行き、他にもオーストリアでの広い宮殿に行っては半日ほど昼寝をしたものであった。
 何でも詳しく述べていると長くなるので、お次はアメリカでの話題に切り換えるとする。
 その、アメリカでも色々と周って歩いたのだが、最も印象に強いのがミシガン州にあるミシガン大学へと行ったこと。
 他に、ケンタッキー州にも行き「ケンタッキーフライド・チキン」はとくに関係なく、あまりにもつまらないシャレでごめんなさい。
 なぜに自分は、東南アジアではなく西洋や欧英のほうがお気に入りであるかと言うと、15、6歳位での高校生辺りのときから、やたらと英国式スタイルに好感を抱き始め、自分もできることなら日本人ではなく、目が青く髪の毛は金色の西洋白人へと生まれ変わりたいと思っていた。
 それは、どこかにおいて普通の日本に住在をしている日本人でいることが、何だか酷くにつまらなく、ごく普通であるものや事柄において、かなりにも違和感を持っていた。
 何でも人と同じようであることが、自らでは納得のできないところがあったからである。

(75)『生きる証とは。』

8月 2nd, 2009

 なぜ今、自分がこの場にいるのか。
 また、自分を見つけ出すために、どこかで心が叫んでいる。
 ふざけてばかりいても、自分を居直ってばかりはいても、もう逃げたくはない。
 まだ、これで何も終わった訳ではなく、まだ何も始まってはいない。
 「僕は今、生きている」
 いつでも安住の地に居座っているような、安定感だけではいられない。
 見るべき美しいものはしっかりと受け入れ、ふさわしくはないと思うものは一切受け入れず。
 まだまだ、人生を割り切ってしまうには早いような気がしている。
 ようやく今になってから、幼子から少しずつ青少年へと心境が変わり始めてきた今日に至る。
 いい歳をして成人を既に過ぎている自分として、遅すぎる成長であるかもしれないが、決して間違ってはいない。
 夢見る少年少女時代は、その個人が強くに願望を抱くかどうかによって、再び甦るものであるように思う。

(74)『空を眺めて気づいたもの』

8月 1st, 2009

 今日も一日、何事もなかったかのように平穏な日が暮れて行く。
 街の中に流れている平和を願う歌、夕方のTVニュースで毎日のように放送されている、本日でのあらゆる主な出来事など。
 (今日は自分のために、何をしましたか。)
 少年のような心を持つ自分に、一日の終りになると、そのように問いかけてみる。
 自分がどんなに日々少しずつ年をとっていこうとも、どこかは青少年期のような尊い気持ちだけは失いたくはない。
 ただ大人へと変化をしていくことよりも、少年のような自分でいることが大切に思う。
 ようやく今となって、自らの精神年齢が成人を迎えたかのようなところへとたどり着いたと思う今日この頃にて、それまでの間に失われていた少年らしさを、今これからの生涯から自分を発揮したい。
 さあ、走り出さなければ、すぐに年寄りとなってしまうのだ。
 「少年老いやすく、学なり難し、一寸のほうい、かろんずべからず」

(73)『生き返るか、堕落するか』

7月 5th, 2009

 (立ち直るなら今だ!)
 そろそろ自分の中で自らの精神にそう言い聞かせようとはしても、どこかにおいては今一歩との勇気がふみ出せない。
 また、一体何を立ち直るというのだろうかと、どこかで不良心も働いてしまう。
 20代での初版であった時期から、今現在での30代半ばに至るまでの、ずっと長期に渡っての間にして、自分はまだ一派な大人としてなど立ち直りたくはないと思ってきた。
 複雑である人間社会は、実に面倒なものだらけである。
 けれども人間である以上、人間社会の中で生きていくしかないであろう。
 子どもであるときに、大人になったら何になりたいかと言う夢を抱くことは良くても、その夢だけのために子ども時代や未成年期、または青少年期であるときを過ごしてしまうことは、大人になったときでの結果だけのために生きるような気がしてしまう。
 結果を出さなければ意味がないのだといった世界もあるかもしれない。
 主に運動競技会では、まさに勝ちか負けかのはっきりとした結果が求められる世界である。
 しかし、そのような競争でのスポーツ会などには全く無関心な人間にとっては、何にも面白さが湧かないものでもある。
 この主題に戻り、子どものままではいられなくても、一派な大人に成長をする前に、もっと気づかなければいけないものが多くにあるはずなのではないかと思ってしまう。

(72)『夏だ、お化けの楽しい季節』

7月 4th, 2009

 そろそろ暑い夏が近づいて来ると、毎年のように心霊怪奇特集などが決まってテレビで放送をされる。
 まだ幼い子どものころでは、夜も寝むれない程に怖いと思っていたものが、今ではまるで笑い話に思えるくらいに、そのような怪奇話が全く怖いと思わなくなってしまった。
 ある意味では、自分がそれだけの大人になったこともあり、様々な物事へと冷めたような目で見るようになったこともある。
 お化けなどが怖いと思っていられたうちは、それだけ自分が幸せであったことかもしれない。
 実は、本来のところで言うならば、お化けよりも現実に生きている人間が最も怖いものであるのだから。
 「オバケなんてないさ、嘘さ」と言う歌があった。
 昔から日本で言い伝えられている、「四ツ谷怪談話」や「お岩さん」など。
「日本名作怪談劇場」、「足立ヶ原の鬼ばばあ」。
 何年か昔にアニメとマンガであった「オバケのQ太郎」や「ゲゲゲの鬼太郎」。
 わりと最近のホラー映画で、SFに近いような「リング」に「らせん」などなどと。
 人間社会が色々と複雑化をしている現代では、同様にお化け会の世界もなにかと競争が大変であるかもしれない。
 全くもう、ウラメシヤ~。

(71)『古い歴史などは過ぎた時代でしかない』

7月 3rd, 2009

 現在においても、昔の大河ドラマや時代劇などが新たなようにも、役者の入れ替わりとともに存続をしている。
 自分も幼かった子どもの頃に、父親から当時にNHKで放送をしていた連続大河ドラマを見させられたことがあった。
 それは自らが進んで見ていた訳ではなく、それを見ることを強要されていたかに近いものであった。
 今一つに、自分としては好きになれず、そのような日本古来での話など、大昔に過ぎ去ったことであり、現代における現実での社会ではないものであるのだと、全く自分としては関心が持てなかった。
 そして今でも、その気持ちは子どもの時と変わらず、昔の歴史物に対しては肯定的に抱いていない。
 現代での現実に近い物語だけでは味気なくても、大河時代や江戸時代に平安時代などを主題としたような、あまりにも大昔での古過ぎた話などは、今現在での暮らしにおいては、知らなくてもいいことではないだろうか。

(70)『危ないバーチャル・リアリティ』

7月 2nd, 2009

 あるドラマやアニメに、または上映公開中での映画などを見て、そのストーリーとどこかで共通性を抱いたりしては、現実での生活の中においても自分がそのバーチャルな世界へと浸ってしまうような場合がある。
 それは実に、ある意味では危険なことであるかもしれない。
 自分も中学生時期に、今から22、3年程前の時、昭和60年頃に放送をしていた当時のドラマを見て、いかにも自分の中でその登場人物での主人公と似たような妄想を抱いたことがあった。
 そのドラマのタイトルなどは忘れてしまったが、ある落ちこぼれ中学生が主演となる物語であり、その頃での自分としては、その主人公が格好良く思えては、自分も彼と同じであるかのような人柄を演じてみたりもした。
 幼い子ども時や、未成年である中学生や高校生のうちは、主に自分という人間性などがよくわからない年頃でもあり、周囲でのものや他人のことなどに、自らが影響を受けては感化されやすいものでもある。
 未成年者が犯してしまう凶悪犯罪においても、ひとつにはTVドラマなどの悪い影響もあるかもしれない。
 どこかで、しっかりと現実での世の中に目を覚まさなければ。
 テレビばかりをみてはならない。

(69)『周る回るよ、時代は。』

7月 1st, 2009

 年々、新しく新メンバーでデビューをしている若い女子アイドル達。
 輝いていられる年若い時は、二度とは戻って来ない。
 男女を問わず、ある青春時期での1ページでもある。
 場合によっては、人生をある程度にふざけて送っている成人を過ぎた大人よりも、最も辛い年頃であるかもしれない。
 そう簡易には、何でも割り切ってしまえない気持ちを多くに抱ける年頃でもある。
 まだ成熟をしきっていない分にも、良い意味では冷め切ってはいない精神とも思える。
 そして、どこかに多少なりの悪ぶれたいような気持ちをも持ちやすい年頃でもある。
 それが、決して一概に悪いことだとは言い切れたものではない。
 また、大人に対しての不信感を抱きやすく、やたらと大人が嫌に思うこともある。
 自分にも未成年期にはそういう時があった。
 できることなら、ずっと大人になどはなりたくないと思っていた。
 現在に至っては、ようやく今になってからに成人を迎えたかのような実感性が、少しずつ持てるようにもなってきた。
 けれども、どこかにおいては未だに大人社会への不信感も少しは抱いている。
 子どもから大人へと変化をすることは、ごく当たりまえで、ありのままでの成長であるだろうが、誰でもがそのように人生を歩むものではなく思える。
 幼年期から小学校と中学校に渡る義務教育での間は、少しずつ成長をしていかねばならなくても、高校生時期からでの成長期に入ってからは、親などから口うるさくはされたくない年頃でもある。
 そして更に20才という成人を迎えれば、またも高いハードルがやって来る。
 若さというのも、儚くも呆然としている間に過ぎてしまい、気がつけば自分も30代となっている。
 けれど、過ぎてみてから気づくものもあって、やり直すかどうかは自らの願望を持つことにもよる。
 気持ちを若く持つか、それとも年寄りくさく持ってしまうか。
 その願望の違いであるかもしれない。
 人生全てにおいて、何もかも諦めてしまう気持ちだけは決して抱いてはならない。

(68)『失業者が増す不況な時期』

6月 4th, 2009

 ただでさえ、職に就くことが困難である現在での状況の中で、派遣切りが相次いでは失業者が増える一方である。
 他にも、倒産をする企業等も増え続けている。一体、日本の高度経済成長期だった時は、どこへと消えてしまったものであろうか。
 もしかしたら、日本も発展途上国化をして来ている時へと、少しずつ近づいているかもしれない。
 毎日、夜になると一日一日が過ぎて行く度に、自分が少しずつ年を老うことが何となく怖いように思えてしまう。
 しかし、時が経ってしまうのはどうにもならない。
 少し前での時に、「引きこもりブーム」が一時だけかなりにも話題になっていた時が過ぎ、その後での「ニート」のほうも過ぎ去ろうとしている。
 まさに今では、お先が見えない不安定であるかのような、バブル崩壊時期での真っ直中のようでもある。
 『人間高度成長時代』などと言っていた世代を思うと、現在での日本がこれまでに不況に陥ってしまっていることからしてみれば、それまでの間に高度成長をしたがる人間が多くにいすぎた結果、今このようにして不況となってしまったのでは。
 必ずしもそうは言い切れないだろうが、人間、自分が人よりも高い願望を持ってしまうと、時に不当な手段を使ったり、又は自分が最も正しく偉い人間であるかのようにも、人一倍に押し上った天狗と浸ってしまうこともあるらしい。
 それは場合によっては、とても怖いものである。
 何事においても、よく慎重に考えてみたら、常に不安や恐怖に思うことなども、多少なりとは心の中に把握をする必要がある。
 格好ばかりを気にする前に、誰よりも内面においてでは自分が醜いと思っている。

(67)『廻り巡って甦るもの』

6月 3rd, 2009

 昔に流行っていたダジャレ文句やギャグ言葉など、今現在になってからでは忘れ去られてしまったようなものもある。
 遥か遠い昔の時代に、20年以上も前の世代に何かと使われていたかのような「なんちゃって言葉」などや、少し後期の世代では「のりピー語」と言ったおかしな言語も流行をしていた時もあり、又、その当時での女の子言葉として一時よくギャグ言葉として話題となっていた、「ウソ、ホントー、カワイー」など、「何とかダシー」「アーン、もうヤダー」「違うのよ!」他にも、「もうチョー最悪!」と言った流行り言葉があった。
 少し前では「そんなの関係ねえ」などと。
 「なーんちゃって」言葉を短くおさえた「なーんてね!」言葉や、「えっ本当に!」を「えっマジに!」又は、「マジッスカ!」。
 「何ということを」という言い方を「なんっちゅーことを」。つーような具合に、色々と思い出せばきりがないちゅーねん。
 何だか書いているうちにも、チョーカッタリィ気がしてきちゃったよーん!
 だってアタイねえ、自分で言っちまうのもなーんだけどさ、ひでえスッ惚けもんダッシー!
 かなりにもオオボケ者だもん!アハハハ。