発達障害とコミュニケーション

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小岩特別支援学校・全国発表会で感じたことは言葉とコミュニケーションの特別の重要性です。それが教育目標や教育課程で追及されているのです。発達障害の困難のなかでここは重要なポイントでしょう(感情の伝達とならんで)。私のこれまでの理解をまとめるつもりで記録しておきます。

言語の役割は、意思伝達(コミュニケーションの)だけではなくいろいろな役割があります。思考することもそうです。行動の監視・管理もします。この3つは坂爪一幸先生の講演では「多くの高次機能に言語が関係する」といっています。思考と行動の管理はまず自分自身に向けられ役立つことです。そのうえで他者との関係につながります。これが意思伝達です。

情報伝達というより広い視点から見れば、言語は遺伝子に次ぐ、遺伝子とは別の役割をする手段として人間が獲得したものです。
他の動物は、叫び声・鳴き声はありますが言語にはなりません。オウムやカラスは人間の話し声の真似をすることはできますが、会話(情報伝達手段)にはなりません。一部の動物で鳴き声を含む動きなどで情報伝達をしているようですが人間にははるかに及びません。
では言語的な手段を獲得できない人の場合はどうなるのか。
人も生まれてすぐには話せません。乳児は泣き声であらゆることを伝え、要求します。そのあとの喃語期を通してやがて言葉を話すようになります。
この過程が停滞しているときが問題です。発達障害による言語の停滞はその一部になります。他に発声器官の異常などにより言葉ができないものもあります。これらは代理機能の開発と利用に道を探します。それも障害児教育の一部であり、医学のテーマですがここでは省略します。
ここで母親の役割を思わずにはおれません。母親は自分の子どもの喃語の意味を理解できます。女性の役割の一つです。ただここにおける女性と男性の機能には絶対的な隔たりはありません。それを認めたうえで女性の持つ特別の役割に加えたいと思います。

養老猛さんは『無思想の発見』(ちくま新書、2005年)のなかで次のように書いています。
「ネアンデルタール人以降、現生人類の社会が成立したとき、もっとも強くかかった淘汰圧は言語使用ではないかと私は考えている。現にいまでも、言語が使えないことは、社会生活を徹底的に妨害するのである。いやな言い方をすれば、現代人は言語機能に欠ける人たちを徹底して排除してきたといえる。その言語と意識はほとんど並行した働きである。言語の機能はもちろん、たがいに了解することである。それなら「了解できない」人は排除されるはずである。それはいまの社会でもさまざまな形で問題になっている」(56ページ)。

話す力がないままの子どもは成長後、社会生活上の大きな困難に出会います。その意味で言葉を獲得するための障害者教育は重大な役割を持ちます。一般的には子どもが小さいほど成果が上がるものですが、その方法論は探求中です。
坂爪一幸先生は成人の高次脳機能障害の知見を子どもに応用することをはじめ、原則的なことを講演において話されました。それは脳科学的な要素だけではありません。話せるようになる「気分の安定化」や話すことがない状態をこえる「体験の豊富化」なども関わります。
教育の場はそれを具体化する日常的な実践の場であり機会です。教育が独立した一つの分野になり、教育学が一つの学問体系になる背景ともいえます。
しかも教育は生身の人間が直接に関わり合う実践です。理論が実現する過程は一人ひとりの子どもと教師とその背後の家族が中心になって、日常のなかで積み重なっていきます。発達障害の教育的な取り組みはこのような意味を持つものであることを確認させてくれました。

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