不得手な人間関係で働ける理由

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私は、もともと人間関係がうまくないはずです。しかし子ども時代から学生時代に人が苦手という意識はありませんでした。ただ情緒的な関係いまも苦手ですし、人前で何かをするタイプではありません。
それがいつの間にか、人間関係を不得手とする不登校や引きこもりの経験者のなかで活動することになっています。その人たちの人間関係はここに難点があるとわかるようになっています。なぜ私はそうなってきたのか、少しは説明できます。

古い記憶を思い出します。高校時代の英語の先生が「私は英語が苦手だった」と言っていました。そのころはこの言葉に懐疑的でした。本当は違うのじゃないかという気持ちで聞いていました。
教育編集者の時代にある小学校の先生が「私は子どもが好きではありませんでした」と話してくれました。この先生は子どもに人気がありました。先生の言葉はウソではないと思いましたが、なぜかはわかりませんでした。
このような先生たちの気持ち、状態は私と似ているのかもしれません。

人間関係を得意とする人は、おそらく人と関わるそのときどきに、何をどうするのかを意識せずにできるのです。苦手とする人は、1つひとつの場面でこうだからどうするというのを意識していくのです。この意識する、意識せざるをえない蓄積が不得手な人の問題を見えるようにしたのです。
人間関係が苦手とする人のそのときの気分、不安、どうすればいいのかのとまどいはかつて自分が直面したことです。その経験が作用しています。
自分の経験からあれこれの状態を考え、人間関係を苦手とする人がどうすればいいのか、どうすればうまくいかないかをいくぶんは推測できるのではないかと思います。
またこうすれば相手にイヤな感じになる、負担をかけるのも何となくわかります。それを外した動き方になることもあります。そ知らぬふりでやり過ごすことも大切です。

しかし、もともと人間関係のうまい人には、何もいうことはできないと予想します。私の弟などはそのタイプだと思いますが、仮に何かのことで彼が人間関係のトラブルがあったとしても私には何もわからない気がするのです。
それは求める問題の所在やレベルが違うし、どうするのかの道筋はずいぶん違うのではないかと思えるからです。
私が人間関係としてわかるのは基礎レベルのことです。高度なこと、情感的なことはできないでしょう。そして基礎レベルのことは人間関係においてもとりわけ大事なのです。

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