子どもの自立の兆候を示す言葉は見逃されやすいもの

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2月22日、不登校セミナーという月例の親の集まりを開きました。今回は参加者が多くて10名以上になりました。感じたことを一つだけ書いておきましょう。

親は当然のことですが、子どもの自立を望んでいます。
不登校状態、引きこもり状態の子どももまた自立できることを自然に望んでいるものです。そして子どもはその兆候を示すことがあります。
親はそれを見逃しやすいものです。なぜ見逃しやすいのでしょうか。子どもの表現は親が望む形で、親が望む方向で、親が望む程度や速度では表現されないからです。
子どもの自立とは、親の望みとは別物のはずですし、親もそれは承知しているはずなのになぜ見逃しやすいのでしょうか。それは子どもの表現が反抗的になるからです。受け取る親はそれへの対抗気分が優先し、子どもの示す自立の兆候とは思わないのです。
私の知る範囲のことですが、不登校や引きこもりの子どもが親の望む形で「いままで引きこもっていてすみませんでした。これからは親の望むような自立の道を進みます」というようなところから、自立に進んだ人は一人もいません。これからもいないはずです。
なぜなら自立とは何よりも親からの自立であり、そのとき子どもの頭の中に占める自立のテーマは「親をいかに超えるのか」だからです。もう少し普通に表現すれば、「親をいかに否定するのか」だからです。
私の息子が中学生の頃、朝早く「おい、カラッキシ! 今日はゴミの日だから袋に入ってゴミと一緒に並んでいたらどうだ」と来たことがあります。いま思い出してもおかしくなります。カラッキシとは、前日にでも覚えたばかりの言葉でしょう。思いっきり親をおとしめる表現に腐心した兆候があって実に反抗期にふさわしいものです。
引きこもりになる子どもの表現はかすかなものになるか、追い込ませて切迫した強い言葉になりがちです。そう心得ておくといいでしょう。

思春期の終わりに反抗期がセットされているのは、この状況が不登校や引きこもりの子どもに固有のことではなく、人間一般の成長コースであることを示しています。
子どもの反抗的な態度が見えたときこそチャンスです。そのときこそ親の、親としての力量が示されるときではないでしょうか。とりあえず子どもの反抗表現を「オッ、来たか!」と思い、できればどう表現するのかおもしろがりましょう。

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