忍耐・我慢・辛抱する力を考える(つづき)

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忍耐力について考えています。
(1)忍耐力は、周囲の何をどのように、どの程度にストレスと感じるのかの感受性または感覚に左右されます。現代社会は、この感受性レベルが高い人が増えていると推測できます。感受性レベルが高くなると、それにより受け取るストレスは多くなりますが、そのストレスの処理能力は並行して高まるようにはできていません。
*ストレス自体は悪いものではなく、価値中立的です。第一人者といわれるH.セリエはストレスを「あらゆる要求に対するからだの非特異的な反応」としています(『脳の探検』68ページ)。この本の著者は「ストレスを引き起こす挑戦や変化は、新しい生活環境への適応のチャンスを与えてくれる場合もある」(69ページ)と見ています。この局面に出合ったときの状態・気分によるのでしょう。
(2)忍耐力は、ストレスの発散方法・回避方法に左右されます。
これは人の経験による学習効果として獲得できる面があります。その意味では意識・自覚が関係するのです。しかしそれが全部ではありません。
それ以前の感情的・情緒的な安定がないと“切れる状態”になります。“切れる状態”とは、ストレス発散の一つの方法です。ストレスの発散方法の全部を意識・自覚の問題にしてしまうと無策になるのはこのためです。意識できないレベルの環境等への対応も想定されるべきなのです。
(3)このように発散方法・回避方法は、周囲の人からは必ずしも好意的にとられるものばかりではありません。
食べることもストレスの発散方法に使われます。身体的に動ける条件がないときの「可能なストレスの発散方法」が、食べ続けることです。本人もそれがいいことではないとわかっていても、他に発散方法がなく自然に無意識に食べている状態になります。周囲の人から好意的に見られない発散・回避方法に加えて、本人が避けたいと思いながらそうするしかない発散・回避方法もあります。
(4)忍耐力がない(我慢できない・辛抱がたりない)というのは、ストレスを周囲の人(および本人)から肯定的に見られない形でストレスを発散・回避方法している現象をさします。忍耐力がない人が増えているというのは、言い換えれば自傷他害的なストレスの発散・回避方法が増えているのです。
(5)対応の基本は、ストレスを感じなくすることではありません。それは基本的にはできないでしょう。受け取ったストレスの発散・回避方法を心身の経験として身につけることになります。ストレスの発散・回避方法の知識を学習する方法も考えられますが、そこは限定的なものと知っておかなくてはなりません。それ以前のレベル、たとえば対人関係の安定を図る経験などが必要です。
(6)学習方法として、「頭に来たら一呼吸おいてから答える」などのいろいろな知恵が紹介されています。それらの知恵を参考にすることは悪いことではありません。それらを通してそれを超える世界に向かうのがいいのです。
*(5)と(6)の部分を実践しやすくするテーマが出てきます。7月15日に書いた「忍耐力を独自に取り上げた文献が見当たらないのですが」とはこの部分に当たります。

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