「No, I regret nothing」=後悔はしない

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最近、1通の手紙をもらいました。
たぶんこの場で公表することはないはずですが、スタンスに気になることがあります。それについて別の話を少々。

私はエディット・ピアフ(1963年に47歳でなくなったシャンソン歌手)の「Non, Je ne regrette rien」をよく聞きます。英語では「No, I regret nothing」、私は何も後悔はしていない、という意味になるでしょう。
ピアフは貧しい生まれであり、歌手としての名声を得るまでは悲惨な生活があった。16、7歳のとき子どもを生み、その子は2歳の時に病死している。ウィキペディアはそのようなことも伝えています。彼女が死を迎えたとき、その生活スタイルの故にカソリック教会は彼女のミサを許さなかったといいます。教会的な観念では容認できない生活があったのでしょう。
さて、この曲は日本語でも歌われ「水に流して」となります。曲名を見たときの印象は奇妙な違和感です。意味に違いはないのですが内容に違いがあります。
「水に流す」というときの流すものは嫌なもの、否定的なことです。しかしピアフはそう作詞していないし、そうは歌っていないと思えるのです。自身の苦しかった人生を象徴的に映していますが、否定はしていないのです。美しい歌い方というより、いさぎよくキッパリして、むしろ快活です。上手下手では表わし難いのですが、上手というしかないでしょう。自分の人生、教会からは見放されるような人生を象徴的な歌にし、142cmの小さな体で力のある歌い方をしています。そこに否定はない、No Regret です。
ウィキペディアは彼女の葬儀には4万人が集まり、パリの交通が完全にマヒしたこと、「今日、彼女はフランスでもっとも偉大な歌手の一人として記憶され、尊敬されている」と記しています。教会的な観念よりもフランス人の自然な賞賛を選びたいです。

さて、最初にあげた一通の手紙。私はこれと対比したいのです。
どんなに苦しい状況なのか、追い詰められているのか、たぶん私は想像できないし、想像を超えているでしょう。悲惨な人生、失敗の重なる人生、抑圧の続く毎日…それにつぶされないで生きる方法はないでしょうか。私が“居直り”というと傲慢に聞こえるでしょう。それは避けられませんが、非力な一個人が居直ったとき、いったいどれだけの人が、どれだけの被害を受けるのでしょうか。それより失敗や悲惨さを否定せず、自分が経験して得た栄養素として生かす道を選べないものか。それが多くの周囲の人に安心感と慰めと、たぶん期待を感じさせるものになるのではないのか。
手紙を送ってきた人がこれを読むことができればこういいたいです。「水に流さなくてもいい。自分の経験としてこれからに生かして欲しい。そしていつか一緒に…」。

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