パソコンの前で何やら口づさんでいたようです。
横で寝ていたMさんが「浅香唯を歌っている!」とちょっと驚いたように起き上がりました。アイドル歌手と松田武己に接点を探すのは確かに珍しすぎます。
それで自分がセシルを歌っていたのに気づきました。以前にカラオケで歌ったこともあります。
この歌を聴いたのは20年以上も前です。「人は大人になるたび弱くなるよね」というフレーズが気に入って、それでうろ覚えにした記憶があります。カラオケで偶然見つけてそれで初めて歌詞の全体をみました。
アニメ「魔女の宅急便」でも、思春期に差しかかった少女が自分の力で飛ぶまでの過程を描いています。「人は大人になるたび弱くなる」のですが、魔女は自分で飛ぶ力を身につけていき、それをアニメの物語にしたのです。魔女が自力で飛べるようになるきっかけは友達でした。セシルの歌詞は「友達以上の愛をさがす」とつづきます。ここがやや女性らしい自立の方向かもしれません。作詞家の麻生圭子さんの感性がさがし、つきとめたものでしょう。
今回、改めてYouTubeでそれを聞きました。当時(現在もですが)はあまりテレビを見ていなかったので浅香唯というアイドルをはじめてみた気がします。
月別アーカイブ: 2013年1月
進路相談会の参加校を募集
第16回「不登校・中退者のための進路相談会」への参加校の募集を開始します。
不登校生や中退生が新年度から入学先を探す相談会を開きます。受入れ校になる高等学校、サポート校、高等専修学校、技能連携校、フリースクール、海外留学支援団体などに参加をよびかけます。
不登校生・中退生などの親を対象として、進路相談、教育相談を受けていただき、条件に応じて進路として各校を紹介していただく機会です。
日時:2013年3月3日(日)13時から16時。
会場:セシオン杉並(杉並区梅里2丁目、東京メトロ「東高円寺」5分)。
企画参加費:3000円(参加校の負担であり、進路先を探す一般参加者は参加費は無料です)。
募集参加校数は13校(原則として申し込み順になります)。
主催:アミータ福祉教育学院、和泉自由学校、親と子の相談室SORA、不登校情報センター。杉並区社会教育センターの事業です。
問合わせ先は、不登校情報センター(TEL:03-3654-0181、FAX:03-3654-0979、メール:open@futoko.info)。
スマホ対応サイト制作教室
不登校・引きこもり・発達障害を受け入れ支援する学校・団体などをサイトで紹介するのが、不登校情報センターの重要な役割です。多数の学校や支援団体等を調べて紹介してきています。それらをいかに見やすく、いかに探しやすく掲載するかが重要テーマでした。
そのために紹介情報を表組みに囲む方法を徐々に広げてきました。
他方、ネット情報を見る人がパソコンから携帯に移動しつつある事態が広がっています。
こちらで作るサイトの情報提供もそれに対応する必要がありました。昨年初めごろは表組みにすると携帯では見にくい状況があると想定しました。いずれ携帯でも普通に見られるように技術的なことも進むと考えつつ、溜まっている未処理の情報掲載を優先してきたわけです。
ようやくスマートフォンで普通に見ることができる、表組み掲載の学校・団体紹介方法がわかりました(見本)。これからその作業を並行して行います。このシステムに徐々に切り替えるのです。
「スマホ対応型サイト制作教室」を次の予定で行います。
少し聞くだけでわかる人もいますが、見本をつくります。
“教室”は参加者1名から実施します。いずれも30分から1時間程度のはずです。
1月15日(火)13:30~
1月16日(水)13:00~
1月18日(金)13:00~
*以後も必要に応じて行います。
愛知県での講演要綱を作成
1月20日、愛知県武豊町で「長期化する引きこもり支援活動」として講演することになっています。講演の要綱をまとめました。大きくは2部にわけ、前半は不登校情報センターの取り組みの経過、後半は当事者の状態と居場所の役割です。主催のなでしこ会に送ります。講演の当日までにさらに検討していくぶん違うことになるかもしれません。
〔Ⅰ〕不登校情報センターの就業の取り組みの経過
(1)ワークスペースの始まり
いまから10年ほど前に、通所していた当事者から不登校情報センターを働ける場にしてください、という声が聞こえるようになりました。当時、30歳前後の人の会という15人ぐらいのグループがあり月2回ほど話し合いをしていました。私はほとんど参加しなかったのですが、2年ほどすぎて話し合いだけでは行きづまりを感じたようです。
①当時は引きこもり経験者とはいえ10代から20代の人が多くて、30代以上の人は少数でした。それだけに「これから働けるようになるかどうか」の問題が切迫していたように思います。
②一般企業で働くには困難が多くて、その道は選べないと判断。何人かはアルバイトなどで働いた経験があり、そういう経験に基づく意見交流だけに状況判断は根拠があります。
③居場所が第2の引きこもりの場所になる、引きこもったままで社会参加をしたい、そういう意見も検討し、そのうえでの要請でした。
④こういう背景から出された要望でした。私は起業家ではありませんでしたが、何度かの話の中で「不登校情報センターを当事者にとっての収入になる取り組みを始める」方向を答えました。それが今日のワークスペースの始まりです。当事者の会という居場所を土台にワークスペースが生まれたのです。
(2)収入になる取り組みの広がりとサイト制作への集中
①実際に収入になる取り組みにしたのは、
*内職(ストラップの部品作りでしたがすぐに断念)、安くて、時間がかかりやってられない。
*ポスティング(ぱど=月2回と月刊新聞で2006年まで続いた)、1地区からはじめ4地区(3500部)まで広がった。参加者も多いときは15名を超えたがその後、参加者が減った。また新聞社は倒産した。
*DM発送作業(2011年まで年2回程度)、リーマンショックと3・11地震のあとに参加校が減り、収入が減り、自前の取り組みが難しくなった。しかし今年また企画して欲しいという要望がきている。
*テープ起こし(2004~06年)、できるのは1名。
*ヘルプデスク(2004~07年)、一時は多少あったが、いまは1名が細々と続けている。
参加者が安定しない(関心、出来ること)、基本的に収入が少ない、継続的なものに応えきれない、などの複合的な原因で途切れていきました。
②ホームページづくり
不登校情報センターの本来業務は学校や支援団体の情報提供⇒その方法が本からネットへの移行していきました(2004年)。
*作業チームづくり(2004年の数名)から体制づくり⇒NPO法人(2005年)にし、目標を「パソコンを収入源にする」。パソコンの獲得と整理(ほとんどが中古のもらい物)。
*収入項目の企画・設定⇒大きなサイトを構想し、項目別ページを企画し、ページがある程度できたところから掲載料、リンク料、広告料を導入、そのご掲載料を無料に。作業費の支払い基準づくり。
*作業チーム、最初は1、2名のできる人から始める。
2006年秋に作業参加可能者の会合(10名くらい参加したが継続した人はいない)。
4台のパソコンで週3回実施チームが動く(2007年春)。
Wikiシステムの導入(作業に参加できる人が10名程度に増える)。
サーバーの統合とアドセンスの導入(2011年)⇒ネット自体が収入になる仕組みを強める。
現在はノートを含めパソコン7台が“稼動”。
③パソコン関係以外(ベースキャンプとしての居場所)⇒〔Ⅱ〕につづく
*創作活動:2006年2月第1回、2011年5月第5回。創作品の販売はホンの少々。
*メンバー個人の対人サービス業中心の取り組み:2011年秋から始める。ヘルプデスク、メイク、居場所案内、手紙相談サポート、訪問サポート(トカネットへの参加)、体験発表企画、ブログの運営…。
(3)ワークスペースの到達点
①週4日のワークスペースが回転している(各自の作業を分担)。参加者は10名程度。他に作業に加わらない人が数名、センター内のイベントには参加する人も別にいる。
1人あたりの作業時間は月数時間から60時間で個人差が大きい。
②各人の収入レベルは数万円。ただし、情報センターとしての収入が追いつかず合計100万円程度の未払いが発生している。アドセンスはほぼ予定レベルに到達。これを倍加するのが今年の目標。
③在宅ワーク(出張オフィス)の開始(2013年から。成否はこれからの動向による)。
(Ⅱ)居場所⇒(観察・要望・企画)⇒ワークスペースの役割
(1)社会参加促進団体の3タイプ⇒学校型、福祉型、仕事起こし型(集団的なSOHO)のなかで活動スタイルを(集団的なSOHO)に位置づける(2005年)。
(2)3つの特徴点(作業が遅い、休み時間が多い、臨機応変と責任の回避⇒集中可能な時間に左右される:個人差は大きい)に見合う作業方法をつくる。
(3)パート労働の3つのパターン:バイト等の就業者の経験。
①3か月のフルタイムバイトと数か月の休職の繰り返し。
②週5日・1日2~3時間の短時間バイト。
③週2~3日のフルタイムバイト(2週で5日制もいる)。
*これを超えると心身状態がおかしくなることが少なくない。「無理をするな」(自分の体調を自分でよく知る、短時間バイトの繰り返しを通して自分を状態を知る)。
*集中力の限度(オーバードーズのTnさん⇒親に言ってもわからないので、体の状態で表わす)
(4)好きなことを仕事にする積極性
①仕事はできないが、趣味のネットゲームは休まない、釣りはいつでも元気、創作活動はしている…。
趣味などは精神的疲労感や不安が少なく継続できる。それを収入にする条件を探しつくる。
②個人事業的なものが適している。SOHOであるが個人単独ではできないので集団的で支援者が関わるワークスペースがあるとやりやすい。高い山に登るときのベースキャンプのような役割。
③コピー機、パソコン、宣伝、イベントなど事務、企画、広報と当事者間のつながりがバックボーンになりやすい。
(5)社会的・制度的支援を要する背景
引きこもり経験者の就労条件はいくつかの特殊条件があります。また個人差が大きく一人ひとりの状態に例外として対応する環境が求められます。
それでいて事業所としての経営が成り立たないと継続ができないものです。社会的・制度的な支援を要するのはこのためです。
①「引きこもり」認定制度、または「引きこもり支援事業所」の認定の導入。
②将来の住宅・生活条件を含む社会的な環境整備をめざす取り組み。
不登校愛ちゃんの映画「さなぎ」
ウッキー・プロダクションというところから連絡がありました。映画「さなぎ~学校に行きたくない~」を公開中なので知らせしてほしいというもの。内容等は次の通りです。チラシは後で掲載します。
三浦淳子監督のドキュメンタリー映画『さなぎ~学校に行きたくない~』は、長野の豊かな自然に囲まれて元気に育っていたにもかかわらず、小学校入学して間もなく学校に行けなくなった愛ちゃんという女の子を追いかけたドキュメンタリー。
お母さんは困惑しつつも、愛ちゃんの心に寄り添って日々暮らすようになり、愛ちゃん本人は学校のシステムや競争社会にはなじめなかったものの、自然のなかで友達とおもいっきり遊びながら自分の居場所をつくり、自分のペースで成長していきます。
本作は、そんな愛ちゃんと家族と友達を静かに、大学生になるまで見つめます。今、未来をになう子どもをとりまく環境は、厳しさを増しています。 世の中のスピードはますます速くなり、効率が求められ、多くの人が結果を出さなくてはならない状況に汲々としています。
子どものストレスは増し子どもの自発的な学びや気づきを待ってあげることが難しくなっています。この作品では、そのような今の日本において、見失われてきた子どもの<いのちの源>がキラキラと映し出されます。
子ども時代は生きる力を身につける時間であり、たくさん遊ぶことが生命力の源。子どもを持つお母さんお父さんにかぎらず、心豊かに生きられる未来を希求するすべての人の心に、ご覧いただきたい作品です。
「この世界がこんなにも輝きに満ちていて、生きる価値ある場所なのだと、次々に発見していく少女たちの物語がなんとも素晴らしい。そして何よりも、長い年月をかけた撮影は、子どもたちの体が大きくなっていくということだけで、奇跡の瞬間が今、目の前で起こっているのだと思わせ、こちらを嬉しくさせる。命は複雑だけどシンプルだ」。瀬々敬久(映画監督)。
映画『さなぎ~学校に行きたくない~』三浦淳子監督ドキュメンタリー。渋谷ユーロスペースにて毎朝10:30から上映中!(1月25日までは上映決定、その後未定)ユーロスペース:東京都渋谷区円山町1-5 キノハウス3F / TEL:03-3461-0211 公式ウェブサイトhttp://tristellofilms.com/sanagi/
相談者等個人へのDMの案内
新年度を前に、不登校情報センターが保持する相談者等の個人宅に入学案内DMを共同で届けたいという要請を受けました。
東京都下のいくつかの区市と神奈川県下の市です。関心のあるフリースクールやサポート校に参加いただき入学案内などを一緒にお送りしようとするものです。10日に企画案内ができます。費用負担の基準は「相談者等の個人自宅へのDM企画」で、参加団体数により割安にします。市区単位で1団体はそのままの費用、2団体は80%、3団体は60%の費用です。市区単位で3団体までの参加とします。ただし費用は前払いです。
DM送付の時期は、遅くとも2月初めまでを考えています。
連絡いただければ、企画書とともに市区単位毎のDM送付可能数を一欄表でお送りします。
連絡先は、FAX:03-3654-0979(不登校情報センター)、一覧表に基づく申し込みは1月25日を締め切りとします。
発達障害の経験発表会
アスペルガー障害など発達障害者の体験発表会を企画しています。
2月11日(月曜日・祝日)、会場は葛飾区新小岩地区センターの第2会議室です。
発表者は女性1名が決まりましたが、男性はまだOKの返事をいただいておりません。松田もアスペルガー気質であろうと思いますので、もし発表者が少なければ発表に加わるつもりです。しかし、程度が軽いのでできればより適当な人に話してもらいたいです。
内容は、特にアスペルガー障害・気質の人がどんな事態を経験したのか、切り抜けるためにどうしてきたか。家族や友達との関係、社会や仕事の中で直面すること、周囲から理解されづらい事情などの実例を話してもらいます。とくに質問を受けて答えてもらうとわかりやすいので交流会的な場をつくる予定です。
参加を見込んでいる人は当事者と親です。
発表してもいい人がいましたら連絡をください。⇒TEL:03-3654-0181、FAX:03-3654-0979、メール:open@futoko.info まで。
現代の青年が直面する課題と引きこもり
*大人の引きこもりを考える教室第9回講義要綱
20代から30代前半に延長された青年期は、人の一生でいちばん身体能力が高い時期です。30代まで延長された青年期といっても、社会的条件による延長であり、生物としての年齢と身体能力の関係は無関係に続きます。
青年期が30代にまで延長した背景には社会的な条件があるとはいえ、その表われ方は個人差が大きく、個人別のオーダーメイドの青年期論が必要といわれるのです。
成人した人間に個人差が大きいのは当たり前です。男女別に加えて、その人の職業的・家族的・人生経験または生活文化的な要素により独自のものになります。成人した個人とはその人格的な実現と同じことです。
青年期における人格的な実現とは、自分と社会関係が統一的に理解されることであり、アイデンティティの確立といわれます。自分が社会人になれる感覚を得ることです。私の例で言えば、26歳のときに「このままでいい」と“居直り宣言”をしたことが象徴的に表われた時期に当たるでしょう。
青年期のあとは徐々に身体能力は低下していきます。代わって知識・技術・経験に裏付けられた社会的な総合力が発揮され置き換えられていきます。従来の青年期は20代前半までであり、成人は身体能力が最高の時期に相当し、その後に社会的な総合力が追いついてきます。現代の青年期はこの身体能力と社会的総合力が交代していく時期が重なるのです。
知識・技術は独自に獲得できます。経験により得るものの中心は対人関係、社会的な関係と結び付いています。知識や技術の獲得と対人関係、社会的な関係が結び付いていた状況が変化し、両者が離れやすくなっているのが現代です。
言い換えると社会的な総合力を身につけることが青年全体に難しくなっています。知識・技術を高度に身につけていくことと、対人関係や社会的な関係づくりが重ならない状態が増大しているのです。多くの青年の成長の困難はここにも一つの根があります。
長期の引きこもり経験のある人の直面することは、身体能力が本人の素質として持っているだけ十分に成長を遂げないうちに低下し始めるのです。「成人しないうちに老化が始まる」感じなのです。長期引きこもりの人は10代が最高の身体能力の時代であった人が多いと思います。
他方、身体能力に代わるはずの社会的な総合力が成長せず、両者の総合した状態はアンバランスになります。知識・技術・経験のうちどれかが、どこかの分野で深く到達している場合は、その分野を梃子(てこ)にして全体を浮上させることができます。そういう人は少なからずいます。
しかし、誰もがそうできるわけではありません。多くの人は個人テーマとして対人関係や社会的な関係づくりを元に戻って身につける、取り戻す必要があります。大多数の長期の引きこもり経験者、ないしは社会的な総合力が低い人は、その部分をさまざまな工夫によって高めることが基本条件です。むしろこの部分は引きこもり経験者だけではなく、多くの青年期の人たちに共通のする現象です。
意外かもしれませんが、これは社会的な進歩の一面ともいえます。動物において成体になるまでに時間がかかるのは高等動物の証拠でさえあります。人間もなお高等動物化、進化し続けているのです。成体になる条件が社会的な要素であることを表しています。
変化のなかで親や教師の従来どおりのやり方が通用しなくなった人が生まれてきました。それは当初は未達成や逸脱状態に扱われました。しかし個人的な独自の成長過程を探る人が増えていき、「自己実現の病(?)」になる人が増大してみると、未達成や逸脱では説明できない本質的な要素が表面に表われます。
文明時代を迎えて以降、人間は生物として持っている身体能力の低下を文化的・技術的な進歩によって置き換え、身体能力以上の可能性を達成してきたといえるでしょう。
この面から見れば長期の引きこもり経験者に典型的に見られる青年期の不燃焼状態・従来とは異なる成長のしかたは、人間がこれまで繰り返してきたことの現代版です。すなわち工業中心の産業社会から情報が特別の役割をする産業社会に移行するとき、人間が直面する課題です。これは青年期の人たちに強くまた広範につきつけられます。そのぶん青年期には特徴的な表われ方をし、引きこもり状態はその一つの表われです。
それへの対応方法は社会構造を含めた大きな変化が必要になります。その全体像を描くことは私にはできません。できるのは個別に表われることを全体と結び付けようとすることです。各人の自立の獲得は従来のやり方に自分を当てはめることでは到達できない人を大量に生み出します。しかしそのエネルギーは社会制度を徐々に変えていきます。
1つの場面をみれば、小さなコミュニティにおいて各人の自由が保障される形ができる環境になります。また大きな社会、大きな国家は社会の進歩と両立しがたくなると予測します。ヨーロッパにおける小国家への分裂傾向は個人の特質を発揮する前提の文化的・地域的・民族的可能性の濃度を高めようとするもので、今回のテーマとレベルはかなり離れていますが、この傾向を示しているのです。
このような社会のいろいろなところに変化を見せながら、社会全体が構造的な変化を示します。青年期と変化と社会の変化は徐々に統合されていきます。しかしそれに至る過程は、社会に振り回されるように見える人を多く生み出します。そういう時期が現代であり、現代の青年論は移行期の性格を示さざるをえないのです。個別のオーダーメイドの青年論が必要になっているといわれるのは、青年論がこの過渡期の性格を持つためです。
美輪明宏さんのヨイトマケ
大晦日の紅白歌合戦を途中から聞きました。しばらくして美輪明宏さんのヨイトマケ。
聞きながら、中学・高校時代を思わずにはいられません。事情があり、そのころ私は母と2年下の弟と3人で暮らしていた時代です。家は何か所か変わり、うち一軒は納屋の二階でした。
山陰の大浦という比較的大きな漁港のある漁師町のことです。港を整備する築港作業があり、中堅どころの建設会社の技術者が近くに下宿生活をしながら指揮していました。50歳前後の母はその築港の現場に出ていました。40キロのセメント袋を運ぶのがたいへんといっていました。
夏休みには私も同じ現場でアルバイトをさせてもらいました。田舎のことであり他に仕事はありません。同じセメント袋を運ぼうとするのですが持ち上がらず、引きずるようにして運んだのです。ほかは発破を仕掛けるため岩場に穴を開けるなどの軽い作業をしていました。技術者は数年の間に何人か交代しましたが、そんな仕事ぶりでも大目に見てくれたようです。漁師の奥さん連が現場には多く、けっこう和気あいあいでした。仕事時間は思い出せませんが1日500円のバイト代で、月1万円を超えるときがありました。
母は看護婦でもあり、疲れたといっては自分でアリナミンの注射をしていました。かなり大きな注射器を使い、今でもその姿をときどき思い出します。思い出すもうひとつは夜なべ仕事のミシンのカタカタという音です。若い漁師達が移動してきてこの漁師町に住み込んでおり、その人たちの衣類の修理やリフォームを賃仕事にしていたのです。1件100円とか200円だったと思います。
5人兄弟のうち私は下から2番目です。小さなころから変わり者といわれました。今ではそれがアスペルガー的な気質であるとわかります。当時は何も知りませんし、それにより差別されるとか不自由は感じていませんでした。「超然としたところがある」とアスペルガー状態を説明されたとき、“それだ”と思いました。中学生になってからは1学期に学級委員長にされました。都合よくそういうポジションに置かれやすかったのです。野球部のキャプテン、生徒会長にされたのもそれです。
貧乏生活でしたので、意識としてはそんなことに気は回りません。授業参観日というのはだいたい1学期にありますが、授業の最初の“起立、礼”の声をかけていたので、今年もまた学級委員長かと母に言われたことがあります。学校でのことは話したことはありません。
そんな母ですが、思いのほかのこともありました。高校のとき列車の通学定期が切れているのをごまかして駅事務室に連れて行かれ、母に連絡が行きました。田舎のことであり、すぐにどこそこの子どもであるかはわかるのです。家に帰ってこっぴどく怒られると思ったのですが「お前のことは信用している。悪いことは出来ないはずだ」というようなことを言われただけでした。似たことに新聞配達のときカーブしてきたバスが接近し、倒れた拍子にジャンパーが破れたことがあります。実は肘を強打して痛めたのですが黙っていました。母はけんかか何かを考えたのでしょうか、「何かを隠しているようだ。お前のことは信用しているから」ということで終わりました。他の兄弟と比べて怒られることがなかったのです。母は私の変わっている気質をどこかで感じて“特別支援家庭教育”をしていたと思えるのです。
土方仕事を見聞きするたびにこの貧しかった時代を思い出します。貧しいことは悪いことではありませんが、貧しさに負けることはあるでしょう。子どもにとってはそのとき親が見本です。子どもを守り、真っ当なところで親が揺るがなければ、貧しいままであっても子どもは自分で成長できるのではないか。美輪明宏さんのヨイトマケはそれを示しています。これが貧しさの持つ教育力でしょう。
1982、3年ころ若林繁太さん(当時、長野県の篠ノ井旭高校の校長)から「これからはゆたかな時代の教育と教育方法が必要だ」といわれて30年がたちました。日本人はその課題はまだ達成していないように思えるのです。