人のなかに繰り返し居続ける経験が人格形成につながる

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人格の成長は教育目的になります。教育基本法というものがあります。戦後まもない1947年に制定され、第1次安倍内閣時代の2006年に改正されました。しかし、両者ともその第1条で「教育の目的」として「人格の完成をめざす」としています。
私は長く教育出版物の編集をしていました。その当時は教育基本法にあるこの言葉の意味がいまひとつ理解できなかったのです。それは編集業務が実際の子どもにふれるものではないことに関係しているためだと思います。
現実に不登校や引きこもりを経験してきた人に囲まれた生活を続け、あの強いいじめを受けた状態の人を見、やがて両者がつながりを感じました。人格形成の弱さ・未完成が共通項と理解するようになったのです。
自己肯定感とは人格の形成または完成に向かうことです。それは学校の成績がいいとか悪いとかの問題ではありません。運動能力が優れているかどうかの問題ではありません。身体に障害があるかどうかの問題でもありません。自分の状態がどうであれ、自分として受け入れられるかどうかの心理的・精神的な成長の問題です。
成績がいいとか悪いとかは「そんなの関係ない」のです。世の多くの人を見ればそうではないですか。自分を認めそれを肯定的に受け入れ成長すること、それが心を育てることになります。私がこの取り組みを教育活動とその延長にあると考えるのはこのためです。

「不登校情報センターに通っていれば何かできるようになるのですか」という質問にはこう答えましょう。「人のなかにいて、ヒトを見ているうちに自分を理解するようになります。そんな自分でもいいと思えるようになったら、何かに手を出して始めたくなります」。
実はこれは私自身の経験でもあります。私は26歳のころ“居直り宣言”という自己肯定をしました。「私は不十分な人間ですが自分ではどうもなりません。それでもよろしくお願いします」という趣旨を数人に話したことです。その前後を比べても変わったものはないかもしれません。あるとすれば気持ちの変化です。背伸びをしない・無理をしないようにしたことでしょう。
私はこれというまとまった教育方法を学んだことはありません。心理学・精神科学や社会福祉の基礎的なことを専門的に学んだこともありません。型破りというよりはもともとの型を知りません。ですから不登校情報センターという居場所ではスペースの所定のプログラム(訓練計画)はありません。出たとこ勝負ともいえるし、人が集まるなかで生まれる自然現象があるともいえます。これらを経験主義といえばそうですし、独創的といえばそうでしょう。特に賞賛することでも卑下することでもなく、事実評価です。
私のほうから何かを提示することは少なく、誰かがしようと始めたことを広げることが多いです。人には個人差がありますから、あるやり方を別の人に無理押しはできません。
必要なのは一つひとつの取り組みや動きにどういう反応があるのかをよく観察することです。公式を当てはめるやり方ではないので時間はかかります。
自分なりに到達した公式らしきものは「人は自分でこういう人間だと肯定的に考えるようになったときに出来そうなことから動き始める」というものです。すでにどなたかが言ったことかもしれません。私は自分の取り組みのなかで発見したことです。質問への回答の言い方を変えた説明でもあります。
(その5・一応のおわり)

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