物分りの悪さは理解が悪いとは単純にはいえず意外と大事

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20歳ごろ読んだ本にあったことばです。堀真琴さんが書いた労働者向けの本だったと思います。そのなかに「賃金や労働条件について説明しているけれども、聞いている労働者のなかに頭を振る、首をかしげるなどして、納得しないことを表わす人がいる」…確かそのようなことが書いてありました。
とかく私たちは理解の早いことを評価しやすいものですが、そうとばかりとは言えないのかもしれません。頭が悪いのではなく、自分が経験してきたことなのに意識はしていないけれども感覚的に違うことを言われると、自動的にそれと照合して自分なりの可否の判断をしていることがあります。自分の体験したことを掘り起こしながら、聞いていることばと対比しながら理解しようとするのです。すぐには整合性がある結論が出ない・出せないこともあるのではないかと思います。頭が悪いのではなく、このタイプの人は逆に頭がいいというか、考えが深いように思います。

このたびの内閣の「集団自衛権の容認による自衛隊の海外派兵への道を開く」決定が多くの国民に理解されないのは、これと同じことではないかと思います。具体的には想像できないような事例をもって集団自衛権を認めていくようなことは、経験がなく頭の中だけの作業にすぎません。
国民の多くは70年近く、日本が戦争をしてこなかった、戦争の名において外国人を殺すことはなく逆に殺されたこともない、日本は戦争をしない国という認識が海外に定着している、これらは言葉にはできなくても平和が続いたことから感覚的に知っていることです。
そういう国民の経験として定着した感覚や意識を、関係者や専門家間のもっともらしい議論でくつがえすことはそうたやすいことではない証明です。国民は理解がないのではなく、理解が深いのです。

人の言うことを理解するには、論理に一貫性があり、わかりやすさが大事だといわれますがそればかりではありません。相手との信頼関係によっては、ときには間違っていることでも理解されてしまいます。今回は「物分りの悪さ」が示す意外な大事な面に気づきました。

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