“死ぬほど”とは最大の気持ちですが確かめられてはいない

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電話というものはこちらの事情に関係なく突然にくるものです。
いま白川静『孔子伝』(中公文庫、1991年)を読んでいて、先ほど電話がありました。
「高校に行きたいと思うのですが、どういうところがいいのか心構えを教えてほしいのですが…」
「それはあなたの状態によります。状態に即した心構えになります。どういうことですか」
「いま高校3年生で休学中です。死ぬほど(高校には)行きたいです」
「それなら高校はどこでもいいです。“死ぬほど”というのが実際はどのようなものかを自分で確かめられると思います」
「わかりました」
これが応答のすべてです。3分もかかってはいなかったでしょう。
突然の電話でしたが、短い会話が論語のようになってしまったと振り返っています。この生徒の質問のしかた自体がそのようなものであったのは、偶然なのですが。

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