(2-2)社会的な病理について

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5月1日の「不同意を『 社会的な病理 』と表わす」の続きです。
ラジオ番組で精神科医・斎藤環さんと社会学者・宮台真司さんが話していたそうです。これはDくんからのまた聞きです。以前は校内暴力や非行に表われたものがある時期から不登校に変わった。対談の二人はこれを反社会的な行動から非社会的の行動に変わってきた、というのです。私は同じ事態を問題行動から社会的病理に見方が変わったと書いたわけです。同じ事態の見る角度の違い、あるいは表現方法の違いととらえたのです。Dくんの話を聞いたときはかなり納得していました。いや今もほぼ納得しています。
ただ少し違う面もあると感じています。社会的な病理はかなり領域の広いものです。大部分はお咎めなしですが、両極にそうとばかりは言えない事態があります。そのはじめは1997年のサカキバラ事件です。その後も毒薬殺人など「問題行動」の範囲を超えた因果関係が不可解の事件、犯罪であり、しかも徐々に増えているようにも思えるからです。いじめにもこれに相当するものがあります。
正確さは保証できないですが、社会性が十分でないまま社会に入ってきた“少年期”の青年、家族関係が崩れている中で“孤立・孤独”な環境に置かれている若い世代、そういうことが関係していると感じるのです。これが社会的な病理の片方の極であるとすればもう片方の極には自傷的な行動、社会的な病理が個人に入り込んでいった事態があります。薬物依存やきわめて極端な強迫的症状などです。
以上は社会的な病理、あるいは非社会的行動はマイナス面に表われることですが、プラス面にも表れています。それは個人の確立と結びついた人間成長の姿になります。個人名を挙げたくはないですが、将棋界の〇〇さん、若さを条件とするスポーツ以外で十代の人が目立つ活躍をしているように思えます。
プラス面もマイナス面も含めてその総体がある時代を表わすでしょうから、悲観と楽観ではなく歴史的にこの時代をニュートラルにとらえ、その内実を思うのです。

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