それでも手がかりを探し求める

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高年齢引きこもりへの対応(その7)  密かにこう考えている人がいます。引きこもっている当事者も家族も特に何かをするわけではない。けれども周囲の環境がきわめて好都合に変わって、当事者が何の抵抗もなく動き始め、出かけていって知人関係ができる社会参加の手がかりを得るのです。
ちょうど宝くじで高額等級が当たるようなものです。それでも最低限は宝くじを入手しなくてはなりません。その宝くじを買う行為に当たるものは何かを考えてみることもあります。確からしいものはまだわかりません。

このシリーズの(その2)で私は“危機感”を書きました。以前にも何度かそれを書いたことはあります。しかし今度はその理解に発展があると考えています。詳しくは(その2)に戻って読んでいただくことにします。
外部の自然災害や家族全体の災難という不幸なことだけが危機感ではありません。本人が自分の現実と自分の可能性やエネルギーの落差に気が付いたときに生まれる危機感を今回は取り上げました。これは支援活動として取り組める“危機感誘発作戦”に結びつきます。横から危機感を押し付けストレスを与えようとするものとは違います。
惜しむらくは、その実践的な方法が明確になっていないことです。成果が目に見えない形でかなり長く続けられた訪問サポートには実質的にはそういう内容があると想像できます。それがまだ意識化はできないのです。いずれだんだん明確になるはずです。

ここで究極といえるものを考えましょう。それはある極限状態を数年にわたり経験した心理学者の著作を読む中で見つけた言葉です。多くの人が次々に亡くなっていくなかで、それでも生きる希望をもち続けた人がいます。自分には「待っている人がいる」、「待っている仕事がある」という人だというのです。
人間は自分自身のためよりも、そういう待っている人のために力を発揮するのかもしれません。
その心理学者は、その地獄の体験を終えた後で、その体験を自分自身の業績とするように向かっていきました。その地獄の体験とはナチスの強制収用所に収監された体験です。
私は引きこもり経験にも、これに匹敵する要素があるものと考えています。すなわち自分ではどうすることもできなくても、待っている人がいることが生きる希望につながるのではないか。そして引きこもりから抜け出すときには、自分の引きこもり経験が否定的なものではなく、自分の“業績として”有効に作用するのではないか、ということです。

これに関してはまだ多くを語ることはできません。昨年来の、当事者の動きのなかに就職活動ではなく、自分にできることを仕事づくりの方向であゆみ始めた人がいます。他の支援団体の動きを見てもこれに類することがあると感じています。彼ら彼女らが自分のそのときの危機感をうまく表した言葉をとらえていないからです。もう少しすればもう少し具体的に示すことができるでしょう。

業績にするという点では、世間的な枠にとらわれず、自分にできることから始めようとする方法にそれがあると確認できます。かなり共通することは、対個人サービス的な仕事ではないかと思います。
(「高年齢ひきこもりへの対応」シリーズは今回をもってひとまず終わります=2012年7月)

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