進路相談会は通信制高校の案内書が充実しています

9月8日の進路相談会(会場:セシオン杉並)に展示・持ち帰られる学校案内書が続々と届いています。
8月31日現在の到着分は次のとおりです。不登校などで進路先を探す多くの方に来ていただき、お持ち帰りいただきたいと思います。
今回は通信制高校の案内書が充実しています。

梧桐学苑(あおぎりがくえん、フリースクール、東京都国分寺市)
あずさ第一高校渋谷(通信制高校、東京都渋谷区)
アミータ福祉教育学院(通信制大学サポート校、東京都杉並区)
アララギ学院(通信制サポート校、横浜市中区)
ECC学園高校(通信制高校、滋賀県高島市)
和泉自由学校(フリースクール、東京都杉並区)
ウォームアップスクールここから(フリースクール、滋賀県長浜市)
NHK学園高等学校(通信制高校、東京都国立市)
科学技術学園高校(通信制・定時制高校、東京都世田谷区)
鹿島学園高校(通信制高校、千葉県習志野市、東京都台東区)
柏高等技術学園(技能連携校、千葉県柏市)
霞ヶ関高校(通信制高校、埼玉県川越市)
学研のサポート校WILL学園(サポート校、東京都新宿区)
国立音楽院高等部(通信制サポート校、東京都世田谷区)
恵友学園(フリースクール、東京都台東区)
興学社高等学院(技能連携校、千葉県松戸市)
高野山高校(全日制高校、和歌山県高野町)
国際高等学院(通信制サポート校、埼玉県草加市)
国際文理学園高等部(通信制サポート校、東京都品川区)

国士舘高校(通信制高校、東京都世田谷区)
サリュートテニス専門学校(通信制サポート校、東京都立川市)
C&S音楽学院(通信制サポート校、福岡市早良区)
志学館高校(通信制高校、埼玉県杉戸町)
翔洋学園高校(通信制高校、茨城県日立市)
聖進学院(サポート校、東京都中央区)
第一学院高等学校(通信制高校、東京都千代田区)
大智学園高校(通信制高校、東京都新宿区)
WSOセンター(高校留学支援、東京都豊島区)
黄柳野高校(つげのこうこう、全日制高校、愛知県新城市)
つくば開成高校(通信制高校、茨城県牛久市)
東京インターハイスクール (通信制サポート校、東京都渋谷区)
東京都立県立新宿山吹高校(通信制高校、東京都新宿区)
東京ネットウエイブ(通信制サポート校、東京都渋谷区)
東放学園高等専修学校(高等専修学校、東京都新宿区)
栃木県立宇都宮高校(通信制高校、栃木県宇都宮市)
大智学園高校(通信制高校、東京都新宿区)
中山学園高校(通信制高校、千葉県船橋市)
日生学園第三高校(全日制高校、兵庫県姫路市)
ニュートン高等専修学校(高等専修学校、名古屋市中村区)
にんげん支援塾 風の旅(宿泊施設、千葉県いすみ市)
日出高校(通信制高校、東京都目黒区)
フリースクール興学社(フリースクール、千葉県松戸市)
蓬明館高校品川キャンパス(通信制高校、東京都品川区)
北星学園高校(全日制高校、北海道余市町)
盛岡スコーレ高校(全日制高校、岩手県盛岡市)
勇志国際学園高校千葉学習センター(通信制高校、千葉県松戸市)
代々木アニメーション学院(通信制サポート校、東京都渋谷区)
代々木高校(通信制高校、三重県志摩市)
代々木高等学院(通信制サポート校、東京都渋谷区)
代々木高校名古屋サテライト教室(通信制サポート校、名古屋市中区)
立志舎高校(通信制高校、東京都墨田区)
わせがく高校東京キャンパス(通信制高校、東京都新宿区)

人のなかに繰り返し居続ける経験が人格形成につながる

人格の成長は教育目的になります。教育基本法というものがあります。戦後まもない1947年に制定され、第1次安倍内閣時代の2006年に改正されました。しかし、両者ともその第1条で「教育の目的」として「人格の完成をめざす」としています。
私は長く教育出版物の編集をしていました。その当時は教育基本法にあるこの言葉の意味がいまひとつ理解できなかったのです。それは編集業務が実際の子どもにふれるものではないことに関係しているためだと思います。
現実に不登校や引きこもりを経験してきた人に囲まれた生活を続け、あの強いいじめを受けた状態の人を見、やがて両者がつながりを感じました。人格形成の弱さ・未完成が共通項と理解するようになったのです。
自己肯定感とは人格の形成または完成に向かうことです。それは学校の成績がいいとか悪いとかの問題ではありません。運動能力が優れているかどうかの問題ではありません。身体に障害があるかどうかの問題でもありません。自分の状態がどうであれ、自分として受け入れられるかどうかの心理的・精神的な成長の問題です。
成績がいいとか悪いとかは「そんなの関係ない」のです。世の多くの人を見ればそうではないですか。自分を認めそれを肯定的に受け入れ成長すること、それが心を育てることになります。私がこの取り組みを教育活動とその延長にあると考えるのはこのためです。

「不登校情報センターに通っていれば何かできるようになるのですか」という質問にはこう答えましょう。「人のなかにいて、ヒトを見ているうちに自分を理解するようになります。そんな自分でもいいと思えるようになったら、何かに手を出して始めたくなります」。
実はこれは私自身の経験でもあります。私は26歳のころ“居直り宣言”という自己肯定をしました。「私は不十分な人間ですが自分ではどうもなりません。それでもよろしくお願いします」という趣旨を数人に話したことです。その前後を比べても変わったものはないかもしれません。あるとすれば気持ちの変化です。背伸びをしない・無理をしないようにしたことでしょう。
私はこれというまとまった教育方法を学んだことはありません。心理学・精神科学や社会福祉の基礎的なことを専門的に学んだこともありません。型破りというよりはもともとの型を知りません。ですから不登校情報センターという居場所ではスペースの所定のプログラム(訓練計画)はありません。出たとこ勝負ともいえるし、人が集まるなかで生まれる自然現象があるともいえます。これらを経験主義といえばそうですし、独創的といえばそうでしょう。特に賞賛することでも卑下することでもなく、事実評価です。
私のほうから何かを提示することは少なく、誰かがしようと始めたことを広げることが多いです。人には個人差がありますから、あるやり方を別の人に無理押しはできません。
必要なのは一つひとつの取り組みや動きにどういう反応があるのかをよく観察することです。公式を当てはめるやり方ではないので時間はかかります。
自分なりに到達した公式らしきものは「人は自分でこういう人間だと肯定的に考えるようになったときに出来そうなことから動き始める」というものです。すでにどなたかが言ったことかもしれません。私は自分の取り組みのなかで発見したことです。質問への回答の言い方を変えた説明でもあります。
(その5・一応のおわり)

人格の成長の阻止や破壊にあった人が持つ困難

前々回の終わりのほうで「何もする気はありません」という人と自己否定感の強い人はほぼ共通の状態にあると書きました。何かの根拠があるのかを問う人がいるかもしれません。
私の体験として見聞したことがあります。強烈ないじめを受けて40年近く家に閉じこもっている人との出会いです。出会いというよりも垣間見た印象です。もし「廃人」という表現がありうるとすればこういう状態ではないかと思いました。
人は成長します。成長とは心身が育つことです。身体の成長は外見にも現われます。心の成長はどうでしょうか。現われていることもありますがとらえがたいこともあります。その心の成長が自己肯定感につながります。ところで心の成長とは何でしょうか? 意外とわからない、答えられないものです。
私はこの強烈ないじめを受けた人を垣間見たあとに、心の成長とは人格の形成であると確信しました。心が成長していないとは人格の成長がストップした状態であると感じたからです。人格の成長がないまま身体が大きく成長しても人になりきらないのです。
心の成長を促進する栄養分は対人関係です。同時に心の成長を阻害する可能性がある毒素もまた対人関係なのです。
子ども時代に強いいじめや虐待を受けた人の困難は、人格の成長が阻止されたためか、ある程度成長した人格が破壊されたためではないかと思えます。対人関係が毒素として働いたためです。
そういう人は意識して何かをする状態にはなれないのです。生存すること自体がパニック、恐怖になるのではないでしょうか。それは自己存在感の空白、自己否定の深刻な状態です。
長期の引きこもり経験者はその手前にいます。「何もする気がありません」「何をしていいのかわかりません」という状態はそれに近づいた状態です。
引きこもり経験者の一人ひとり違う現実状態からスタートしなくてはなりません。誰かの頭のなかに描かれている「社会人としての基準」からはスタートできません。ゼロからの出発ではなく、マイナス状態からゼロに向かい、その勢いでプラス世界に進む取り組みです。
(その4)

不登校情報センターの取り組みの説明につける「註」

8月30日に『「何もする気がありません」という人への答え』(その1)と『作業があると対人関係の心理的な先鋭化を緩和できる』(その2)を書きました。これは連続していますので順に読んでください。
次に進む前に(その1)(その2)で書いたことに註をつけておきます。

◎ 心理戦争は禁止すべきこととは思いません。いじめレベルになるとそうも言っておれませんが、当事者にとり普段は心理戦争は必要であると思います。
心理的なストレスを強く受けたこと(いじめ、仲間はずし、暴力などによる攻撃を受けること)が精神的な成長を停滞させていると考えられます。その回復力をどうつくるのかを考えると有効です。
支援者が意図的なプログラムを用意する方法があると思います。私はそのようなものを知りません。それに代わって自然状態を推奨します。特別に攻撃的な人がいないことが前提ですが、同世代の人がその役割を果たします。はじめのうちは人数が少ないなかで経験するのがいいです。それは当事者が自然に選んでそうします。
心理的なストレスに対する抵抗感がなくなっている、そういうストレスを受けたことがない人にはこの心理戦争は学習の機会になります。
対人関係においては自分の思う状態の範囲のなかでは存在できない、そういう経験をするうちに人を学び、自分を知るのです。

◎ 「手伝います」も考えてみる内容があります。何もない空白状態でできそうなことを考えるのではなく、目の前に自分ができそうなことが展開されている状態になります。個人差がありますから集まる全員に通用するのではありません。誰かに通用すればそこから別の作業、別の人への普及が見えてきます。
私の場合は文章を書くなどの編集的な作業が多くありました。それを見ていて「手伝います」となったわけです。そこでしていることは影響を与え広がりやすいことは確かです。

◎ 優れていること、できることを誉めるのは自己肯定を高めるのに有効です。環境や場所が影響することも認めましょう。特に幼児・小学生や10代ぐらいまでは有効性は高いと思います。
しかし、年齢が高いと逆効果も出ます。優れた能力をほめることや環境条件などを最優先に考えないのは、そこを指していると読み取ってください。
(その3)

作業があると対人関係の心理的な先鋭化を緩和できる

この心理的な戦争の勃発を緩和するために(消滅させることはできないでしょう)、数年後に対人関係に中間的な要素(媒介)を取り入れました。
その場合も私が意図的に考えてそうしたわけではありません。ある人が私の情報提供の作業、当時は支援団体の情報提供本の編集をしていましたが、それを「手伝いたい」と言ってきたのです。
形は違いますがそれはいまもあります。それがスムーズに現在に続いてきたわけではありません。いろいろあってだんだんそのようになりました。
この作業をすることが、通所する人たちの間の対人関係におけるセンスティブなものをいくぶんは緩和してくれるのに気づいたのです。作業療法にはそういう面があるのではないでしょうか。
作業にはその後いろいろなものがありました。『ひきコミ』の編集、「ぱど」の配布、DMによる学校案内書の発送などは比較的大きな取り組みです。小さなものはいろいろ発生しました。
その後、不登校情報センターのホームページで学校や支援団体の情報提供ができました。情報提供と情報収集はこの形になったのです。これが今日も続いているのです。

これらの各種の作業によって対人関係がどの程度スムーズになったのかはよくわかりません。それもあるのですが、それとは別の大事なことがわかりました。もう数年前のことになります。
特に対人関係をよくする必要はないと思えてきたのです。いつもとんがった状態でいては対人関係もできないですが、そうでなければかまわないのです。
対人関係をよくすることに意識が集中するともっと大事なことに気づかないと考え始めました。対人関係をよくする必要がない、というのは言葉足らずですが、他者に対して攻撃的でなければよしとする程度です。作業も共同作業ではなく、可能ならば自分の分担をひとりですればいいのです。

「大事なこと」とは、簡単にいうと自己肯定です。自己肯定というよりは自己肯定感がもっといいでしょう。自己肯定というと、何か優れていることを並べてみる、上手で自慢できる、賞をもらった、資格がある…ということを並べる人がいますが、それらはほとんど関係のないこととしておきます。
安心していられる感覚かもしれません。そうするとまたそういう環境や場所を考えるのですが、それともまた違います。
むしろ通所する人、不登校や引きこもりの経験者の共通に見られる自己否定感からのスタートのしかたが私には実際的なテーマであると思いました。
自己否定から自己肯定に進むこと、これが「大事なこと」です。世の多くの場合は、自己肯定をどう高めるのかを問題にします。ところが私の直面する人の多くは自己否定感に深く入っています。ここからスタートです。
「何もする気が出ません」「何をしていいのかわかりません」という人と自己否定感の強い人はほぼ共通の状態にあると見るのです。
私が書くものが思索的にならざるを得ないのはこのためです。書くのがうまい人はこのあたりが違うのでしょう。私の限界はいつもここらあたりです。
(その2)

「何もする気がありません」という人への答え

「何もする気がありません」「何をしていいのかわかりません」ということを聞くことが多いです。私の元にやってきてそう言っているわけですから、家でじっとしている引きこもりの人はこの状態がもっと深く徹底しているとみていいでしょう。
結局、私が不登校情報センターの居場所でしようとしてきたこと、していることはこの状態への対応策の模索になります。それについて2、3回に分けて書きます。
ところが私が何かを書くと臨場感がなく、よくわからない文章になります。もっと具体的に書くように注文を受けることは多いです。ですが今回は初めから具体的なことは意識せずに書きます。
「何もする気が出ません」という人に「不登校情報センターに通っていれば何ができるのですか」という質問を受けたのです。その人にどう答えるのか。いや長く通所してきている人はどうなのかを考えることにもなります。

1995年に不登校情報センターを始めたときは「支援する」という考えはなかったはずです。不登校や中退生を受け入れている学校や支援団体の情報紹介、そのための情報収集が中心です。それまでにも電話相談がありました。そのばあいは支援者を紹介してきたのですが、そのやり方に限界を感じていたことは確かです。よく考えればそこにも間接ながら“支援”はあったのかもしれませんが、少なくとも意識はしていませんでした。

さて質問に答えなくてはなりません。しかし、直接の結論じみたことはすぐには出てきません。さらにお待ちください。
現在の通所している当事者には情報提供・情報集めとその周辺作業の手伝いに来てもらっているのです。支援を求める人が来ても、何をしてもらうのかは決めていなくて、できそうなことがあれば来るように勧めます。来ていても何もない人もいると思います。
これが情報センターに通所してきた人へのさしあたりの答えになります。
しかし私が不登校や引きこもりの経験者に情報センターに来るように勧めたのは、彼ら彼女らがそれを求めていたからです。互いに話せる知人、友人を求めていた、それに応えようとしたのが通所者の生まれた背景事情です。

はじめは数人でしたが、徐々に増えました。そのなかでいろいろなことが発生しました。私が知っているのはいろんな事情のほんの一部に過ぎません。
相手を選ぶ基準の精密さというか好みの高さに気づいたのはかなり経ってからです。私には何もわからないうちに個人間で心理戦争が始まり、いつの間にか戦争は終わっていました。そのなかには去っていった人も多いと思います。戦った両者とも去っていったケースも多いと思います。
こういうことは新しくやって来る人の間では現在も続いているはずです。この人たちの間ではとりわけそうなりやすいことがわかります。それが対人関係のとりにくさに関係するのです。確かに不登校・引きこもりの経験者には大筋でそういう人たちが多いからです。
(その1)

日本の特殊性を明瞭にすることと天皇制の肯定は同じではない

最近読んだ本のことを続けてもうひとつ書きましょう。
吉田孝『日本の誕生』(岩波新書、1997年)を読みました。
日本の古代史の研究が精密にシャープに実証されているのを実感させてくれる名著であると思います。
注目したいのは「あとがき」の冒頭部分です。「やはり日本は特殊な国だということにならないか。その点では皇国史観と同じではないか」―この本の草稿を読んだ一人から出た感想だそうです。
この言葉を見て思い出すことがあります。このたびの引越しの折に処分した本に『風土』(和辻哲郎)があり、読んだことがあります。『風土』も日本の特殊性を述べ、それが天皇制の存在を根拠付けるものとして批判的な扱いを受けたことを知りました。このあとがきと似ていると思いました。
仮にそれが天皇制を根拠付けるとしても、このような扱い方はなじまないでしょう。なぜなら日本には天皇制が続いてきた現実があるからです。その賛否と存在理由を明らかにすることは同じではありません。日本に原子力発電が普及してきた事実を研究することと、その存在の賛否は同じではないのと同じ論理です。

見出しのつけ方を変えようと試みています

「センター便り」と「新着・更新」の見出しのつけ方を変えます。
これは『ネットの炎上力』(蜷川真夫、文春新書、2010年)を読んでそうしようと考えたことです。この本はそんなことばかり書いたものではなく、J-CASTニュースを立ち上げた著者の実践的な内容を書いたものです。いろいろ学ぶ点は多いです。見出しのつけ方を変えたのもその一つです。

ネットというか情報社会を取り上げた本で最近読んだものに『キュレーションの時代』(佐々木俊尚、ちくま新書、2011年)もあります。佐々木俊尚さんは私にネットの重要さを具体的に教えてくれた人になります。『グーグル』という本で、2009年ころに読み、もう手元にはありません。それ以降、ネットに関するものを20冊近くは読みました。
それから4年ぐらい経ちます。「4年しか経っていない」というべきか「4年も経っている」というべきか困るほどですが、ネットは重宝しています。

文通ボランティアの問い合わせ、今度は大阪の人から

文通ボランティアの問い合わせがありました。大阪在住の人からです。最近状況をお答えしました。

文通と文通ボランティアは続けていますが、あまりうまく働いていないのが正直なところです。
うまくいっていないのですが続けている理由は2つあります
(1)文通ボランティアを希望される方の中にはご自身が不登校や引きこもりを経験した方が多いと思われます。そういう方にご自身のこれまでの経験を体験手記のような形で書いていただくようにお願いしています。
その体験記を見て「この人に手紙を書いてみよう」と感じられる人が現れるのを待っているのです。体験者の多くは文通ボランティアを自称するだけではその方に手紙を書くだけの気持ちは起きてこないのではないか。そう考えて昨年あたりから始めた方法です。文通ボランティアを実際に動くものにしたいのです。
(2)もう一つも同じような理由なのです。「質問コーナー」をつくりました。不登校情報センターには本人や家族や時には支援者から問い合わせが入ります。
それに対して答えてきたわけですが、私一人が答えるのではなく活動分野の異なるほかの支援者や体験者の経験の基づく回答も寄せていただこうと始めたのです。これは今年の春になって始めたことです。
特に体験者の経験の基づく回答を重視したいと思います。すでに100項目ぐらいの質問を整理したのですがこれなら答えられるというものがありましたら、回答をお願いしたいのです。
1例を挙げますと、「〔質問01〕不登校・引きこもりに共通する強さや能力は?
不登校・引きこもりにわりと共通する特殊な強さや能力はありますか。」というものがあります。
自分ならどう答えるのかを考えてみてほしいのです。質問例はいろいろですが、関心があるようでしたら他にも送ります。
●不登校情報センター>質問コーナー質問例 で見ることもできます。
問い合わせに答えたことにはならないかもしれませんが、これが実情です。このような文通ボランティアに参加していただければ歓迎いたします。

運動音痴でいじめられたが元気づける手助けをしたい

「自分も昔、学校で嫌な思いをしたのでそういう方のために少しでもお役に立ちたくて」と連絡を取ってきた方がいます。
20代の静岡県在住の技術系の会社員です。こう自己紹介しています
「私は、学生時代、口がどもる事を何回もばかにされて性格が暗くなり、口がどもり後、運動音痴で対人関係がうまくいかなくなり幼稚園、小学校時代の友人から見放されました。
中学校1年の時は、落ち込んでひきこもっていましたが、2年ごろから部活でテニスをやりました。運動音痴で上達しなくみんなからバカにされました。高校時代も弓道をやりましたが、これも駄目でした。
一時は、自分は駄目だと思っていたこともありました。 
私と同じようにいじめらて本来のいい自分を見失った人が元の魅力ある人にもどれるように、うまくは言えませんが輝けるように手助けをしたいと思います。受け入れて元気づけたりおもいっきり笑わせたりと…。」
この方に何かを聞いてみたい、頼んでみたいという方はいませんでしょうか。