死後の天国か現世の変革か―時代は意識を超えて変わっていく

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6月8日の「しんぶん赤旗」に載っていた2つの記事から考えてみたことです。
1つは文楽の豊竹英太夫さんのインタビューにある言葉です。
英太夫さんが演じた文楽『桂川連理柵』(かつらがわれんりしがらみ)は、「封建の世の中、現世では不可能な男女の恋を来世でかなえようという話しで」あり、近松門左衛門に代表される心中ものの一つです。
近松門左衛門の代表作『曽根崎心中』は、『大阪学 OSAKALOGY』(大谷晃一、新潮文庫、1998年)がこう評しています。「その凄惨な死の場面の、なんという美しさ。…義理に詰まって死んでいく者の悲しみと美しさがうたい上げられる」(211ページ)。『桂川連理柵』も『曽根崎心中』も実話をもとにした創作であり、江戸時代・18世紀の作品です。他にも18世紀のスコットランドの曲として知られる「アニー・ローリー」もそういう実話に基づく歌詩です。似ている実話は最近もあると思います。死や不幸を美しくうたいあげるのです。それは人間の悲劇の感情を巧みに昇華する仕方なのでしょう。

もう1つの記事はジェームス三木さんの連載「ドラマに首ったけ」です。
「ドラマとは、人間の動物的本能と、それを規制するさまざまなものとのせめぎ合いを描くものだ」と言います。
人間個人と社会の関係=せめぎ合いを描いているのがドラマというわけです。せめぎ合いには物語をつくる個別事情が関係します。といっても時代の枠を超えるものではありません。せめぎ合いのなかに物語の時代の枠が表われます。
時間とともに制度も社会も歴史も変わり、個人が意識をしないうちに、意識を超えてその枠が変化するのです。そういう変化のなかで個人が、個人の意志が尊重されるようになってきたのです。
それは闘いでした。意識した人もいれば自然な感情にしたがってそうしただけということもあったでしょう。そして成功したときばかりでなく敗北に終わっても、闘ったからこそ読む者・聞く人の感情を揺さぶり、うたいあげるだけのものが備わるのです。その積み重ねのなかでそれを実現できる社会条件ができてきたと読み取れます。

その累積の結果、大きなことが18世紀と現代では変わりました。何が変わったのか。いろいろありますが、私の言葉ではなくF.エンゲルスの言葉がいいでしょう。
「原始キリスト教の歴史は、近代の労働運動との注目すべき接点を提示する。…キリスト教も労働者社会主義も、隷従と困窮からのまぢかい救済を説く。キリスト教はこの救済をば、死後のあの世の生活に、天国に。社会主義はこの世に、社会の変革におく」(『原始キリスト教史によせて』、1894年)。
18世紀までは、死後の世界に実現を託すしかできないものがありました。しかし現代では、生きているこの世に実現を託すことが可能なものがある。こう言ったのではないでしょうか。

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